コミュニケーション・ラボラトリーの公式ブログです。イベントの告知のほか、いままで書き溜め、Mixiなどで公開していた文章なども公開していきます。
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「会話はキャッチボールだ」という言葉は、誰しも一度くらいは聞いたことがある比喩表現ではないでしょうか。2人の人間が相手の話も聞かないで勝手に言葉を発しあうのではなく、相手の発言を受け止め、そして返すということで会話が成立するというようなことを表現したのだと思います。
しかし、コミュニケーションに関心を持って研究しようとしている人間としてこの表現が良いたとえだとは思えていませんでした。なぜかというと、キャッチボールでは確かに相手の取りやすいところを狙ってボールを投げるべきものであるけど、仮に悪送球をしてしまい相手が態勢を崩して捕球したとしても、次に相手がボールを投げ返すときには態勢を立て直して投げてくれるものだからです。実際の会話ってそういうものではないでしょう。自分が相手にとって的外れな発言をしてしまったり、受け止められないような発言をしてしまったりわけのわからない発言をした場合、相手から返ってくる言葉も、「売り言葉に買い言葉」のようになって僕の取りやすいボールとならないと思うからです。であるから、キャッチボールという比喩では明らかに会話を表現しきれていないのです。
では、会話を例えるならなんなのだろうと考えていたのが1年以上の前に主催したファシリテーション講座の時だったのですが、その時思いついたのが「テニスのラリー」という比喩でした。ここでの「ラリー」とは、試合で勝つためにボールを打ち合っている状況ではなく、練習などでひたすら2人組で長くボールを打ち合っている様子を指します。捕球と送球という二つの動作が独立して行われる野球のキャッチボールと違い、テニスは来たボールに対して返球があるだけ。そして、テニスや卓球を多少でも経験があればわかるように、ラリーを続けようとするなら、相手にとって取りにくい場所へボールがいってしまうと、相手が良い態勢で打ち返すことができず自分のところにちゃんと返ってこない可能性が高くなります。結果的にラリーは続かなくなってしまう。この「テニスのラリー」という比喩表現であれば、キャッチボールで表現できない、会話における「言葉の相互影響性」:をちゃんと説明できていると気づき、思いついたときにはとてもテンションが上がってしまいました。
そのあとしばらくこの表現のことを忘れてしまっていたのですが、先日参加した西村佳哲さんの「”自分の仕事を考える三日間”の作り方」で、西村さんがファシリテーターとしてシンポジウムの場を仕切るときの会場やゲストとのやりとりや発話をテニスの比喩をつかって説明されていた時に、自分の「会話とはテニスのラリーである」という比喩を久しぶりに思い出した次第でした。
西村さんのいうテニスの比喩は、僕のものとは少し着眼点が違い、誰かと話すときに、その相手と向き合っている「自分」がいて、そしてそのさらに後ろに発話のやりとりを客観的にみている「自分自身」がいるという話の流れでのたとえ話でした。「自分」が「相手」に近づいてやりとりをするのがテニスのネット際での攻防であり、コートの後ろライン際(ベースライン)で打ち合っているときは内的世界の「自分自身」に近づいて「相手」と話をしているとき。そして、あんまりネット際ばかりにいると、相手のボールを打ち返せなくなってしまう。なので、ずっとネット際からばかりにいないで、自分自身とも語りながら発話をしていった方が「すべらない」場の仕切りができる、というような説明をしてくださっていたかと思います(僕の解釈では)。
この説明を聞いて、もともとあった自分の「会話とはテニスのラリーである」という比喩が、テニスコートの前後関係やネット際などの概念が加わることでより深い省察になりえたと感じました。テニスのように相手と会話をする中で、ネット際からベースラインまで自分のコートを移動するように「会話する相手に心理的に近づき盛り上がって話す自分」と「会話を客観視する内面の自分自身と語り合いながら相手との会話を続ける自分」との両方を持って相手と話をしていくことで、より深く、より長く、より強く相手と語っていくことができるのではないか、と。
更に、「続けるためのラリー」というのとは違ってしまいますが、ベースラインで冷静に打ち合うだけではなく、相手のコートにボールをスマッシュするには、ネット際に出ていくことも恐れてはいけないのだと思います。それは、自分の内面に「自分自身」がいるように、話をしている相手にとっても「内的なその人自身」がいて、「その人自身」に思いを届けるということに近いような気もします。
何はともあれ、「会話はキャッチボールである」という考え方は、会話を本質的に理解するためには不十分であり、「会話はテニスである」というイメージを持つことで、自分の言葉の発し方や相手とのやり取りの仕方、相手の発話への受け答え方など考え直すきっかけになるような気がします。
そして、テニスというたとえを改めて考えてみると、相手がどんなに下手でちゃんとボールを返すことができないとしても、自分がボールの受け止め方がうまくなればちゃんと相手に次の良いボールを返すことができるということが重要な点です。お互いが良いボールを返そうとしあうことはもちろん重要ですが、相手がそうでなくても、僕が受け止めてちゃんと相手の打ちやすい場所へ返す力を持っていれば会話というテニスのラリーはいつまでも続けることができるのです。どこへ行くかわからないボールをちゃんと相手に返すのは高い技術が必要ですが、どんなボールが来ても反応できるように、ネット際のように相手に近づきすぎず、コートの中央後ろ寄りに構えるというような位置取りをしてしっかり相手を見る。そしてそれだけではなく、言葉遣い、表現、間、発話のスピード、姿勢、単語などに気を配りながら質の高い返球をする技術を高める。そういう努力をしていくことで、失敗を繰り返しながら、よりよいコミュニケーションが取れるようになっていくのではないでしょうか。
長くなりましたが、拙文お読みいただきありがとうございました。
12月18日(日)にYDPという団体とちょっとイベントやります。よかったらぜひ~
http://www.ydpjapan.net/?p=576
しかし、コミュニケーションに関心を持って研究しようとしている人間としてこの表現が良いたとえだとは思えていませんでした。なぜかというと、キャッチボールでは確かに相手の取りやすいところを狙ってボールを投げるべきものであるけど、仮に悪送球をしてしまい相手が態勢を崩して捕球したとしても、次に相手がボールを投げ返すときには態勢を立て直して投げてくれるものだからです。実際の会話ってそういうものではないでしょう。自分が相手にとって的外れな発言をしてしまったり、受け止められないような発言をしてしまったりわけのわからない発言をした場合、相手から返ってくる言葉も、「売り言葉に買い言葉」のようになって僕の取りやすいボールとならないと思うからです。であるから、キャッチボールという比喩では明らかに会話を表現しきれていないのです。
では、会話を例えるならなんなのだろうと考えていたのが1年以上の前に主催したファシリテーション講座の時だったのですが、その時思いついたのが「テニスのラリー」という比喩でした。ここでの「ラリー」とは、試合で勝つためにボールを打ち合っている状況ではなく、練習などでひたすら2人組で長くボールを打ち合っている様子を指します。捕球と送球という二つの動作が独立して行われる野球のキャッチボールと違い、テニスは来たボールに対して返球があるだけ。そして、テニスや卓球を多少でも経験があればわかるように、ラリーを続けようとするなら、相手にとって取りにくい場所へボールがいってしまうと、相手が良い態勢で打ち返すことができず自分のところにちゃんと返ってこない可能性が高くなります。結果的にラリーは続かなくなってしまう。この「テニスのラリー」という比喩表現であれば、キャッチボールで表現できない、会話における「言葉の相互影響性」:をちゃんと説明できていると気づき、思いついたときにはとてもテンションが上がってしまいました。
そのあとしばらくこの表現のことを忘れてしまっていたのですが、先日参加した西村佳哲さんの「”自分の仕事を考える三日間”の作り方」で、西村さんがファシリテーターとしてシンポジウムの場を仕切るときの会場やゲストとのやりとりや発話をテニスの比喩をつかって説明されていた時に、自分の「会話とはテニスのラリーである」という比喩を久しぶりに思い出した次第でした。
西村さんのいうテニスの比喩は、僕のものとは少し着眼点が違い、誰かと話すときに、その相手と向き合っている「自分」がいて、そしてそのさらに後ろに発話のやりとりを客観的にみている「自分自身」がいるという話の流れでのたとえ話でした。「自分」が「相手」に近づいてやりとりをするのがテニスのネット際での攻防であり、コートの後ろライン際(ベースライン)で打ち合っているときは内的世界の「自分自身」に近づいて「相手」と話をしているとき。そして、あんまりネット際ばかりにいると、相手のボールを打ち返せなくなってしまう。なので、ずっとネット際からばかりにいないで、自分自身とも語りながら発話をしていった方が「すべらない」場の仕切りができる、というような説明をしてくださっていたかと思います(僕の解釈では)。
この説明を聞いて、もともとあった自分の「会話とはテニスのラリーである」という比喩が、テニスコートの前後関係やネット際などの概念が加わることでより深い省察になりえたと感じました。テニスのように相手と会話をする中で、ネット際からベースラインまで自分のコートを移動するように「会話する相手に心理的に近づき盛り上がって話す自分」と「会話を客観視する内面の自分自身と語り合いながら相手との会話を続ける自分」との両方を持って相手と話をしていくことで、より深く、より長く、より強く相手と語っていくことができるのではないか、と。
更に、「続けるためのラリー」というのとは違ってしまいますが、ベースラインで冷静に打ち合うだけではなく、相手のコートにボールをスマッシュするには、ネット際に出ていくことも恐れてはいけないのだと思います。それは、自分の内面に「自分自身」がいるように、話をしている相手にとっても「内的なその人自身」がいて、「その人自身」に思いを届けるということに近いような気もします。
何はともあれ、「会話はキャッチボールである」という考え方は、会話を本質的に理解するためには不十分であり、「会話はテニスである」というイメージを持つことで、自分の言葉の発し方や相手とのやり取りの仕方、相手の発話への受け答え方など考え直すきっかけになるような気がします。
そして、テニスというたとえを改めて考えてみると、相手がどんなに下手でちゃんとボールを返すことができないとしても、自分がボールの受け止め方がうまくなればちゃんと相手に次の良いボールを返すことができるということが重要な点です。お互いが良いボールを返そうとしあうことはもちろん重要ですが、相手がそうでなくても、僕が受け止めてちゃんと相手の打ちやすい場所へ返す力を持っていれば会話というテニスのラリーはいつまでも続けることができるのです。どこへ行くかわからないボールをちゃんと相手に返すのは高い技術が必要ですが、どんなボールが来ても反応できるように、ネット際のように相手に近づきすぎず、コートの中央後ろ寄りに構えるというような位置取りをしてしっかり相手を見る。そしてそれだけではなく、言葉遣い、表現、間、発話のスピード、姿勢、単語などに気を配りながら質の高い返球をする技術を高める。そういう努力をしていくことで、失敗を繰り返しながら、よりよいコミュニケーションが取れるようになっていくのではないでしょうか。
長くなりましたが、拙文お読みいただきありがとうございました。
12月18日(日)にYDPという団体とちょっとイベントやります。よかったらぜひ~
http://www.ydpjapan.net/?p=576
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色々なことに、特に規模の大きいことに関わっていると自分の思い通りにならないことがどんどん大きくなる。いや、仕事だけじゃなくて人間関係だって、「こうしてほしいのに」「ああしてほしいのに」なんて思ったって、すべてが自分の思い通りになるわけじゃない。
そういう「思い通りにならないこと」に、いちいちイライラしたり、むかむかしたりしてしまうのってなんだかもったいないなってあるとき思って。
そういう「自分の力じゃコントロールできないもの」をコントロールしようとするのじゃなくて、時にそれを乗りこなしたり、それに巻き込まれたり、振り回されたりしながら、そういう人生自体を楽しみたいって思うようになった。
たぶん、サーファーの人ってそういう気持ちなんだろうね。
自然と向き合うスポーツ。波も風もコントロールなんてできない。来た波を受け入れて、どうすれば乗りこなせるか考える。大きな波が来たときほど、高揚する気持ち。波に飲み込まれた時の爽快な悔しさと、乗りこなせた時の込み上げる充実感。そういう感覚っていうのは、多分「自分ではコントロールできないもの」と対しているからから感じられるのだと思う。
僕はサーフィンはしたことないし、たぶんこれからもする機会はほとんどないと思うのだけど、でも人生を生きている中で、そういう感覚は持っていたいって思う。
人生をサーフしたい。自分ではコントロールしきれないものを楽しんで、乗りこなそう、巻き込まれよう。
そういう「思い通りにならないこと」に、いちいちイライラしたり、むかむかしたりしてしまうのってなんだかもったいないなってあるとき思って。
そういう「自分の力じゃコントロールできないもの」をコントロールしようとするのじゃなくて、時にそれを乗りこなしたり、それに巻き込まれたり、振り回されたりしながら、そういう人生自体を楽しみたいって思うようになった。
たぶん、サーファーの人ってそういう気持ちなんだろうね。
自然と向き合うスポーツ。波も風もコントロールなんてできない。来た波を受け入れて、どうすれば乗りこなせるか考える。大きな波が来たときほど、高揚する気持ち。波に飲み込まれた時の爽快な悔しさと、乗りこなせた時の込み上げる充実感。そういう感覚っていうのは、多分「自分ではコントロールできないもの」と対しているからから感じられるのだと思う。
僕はサーフィンはしたことないし、たぶんこれからもする機会はほとんどないと思うのだけど、でも人生を生きている中で、そういう感覚は持っていたいって思う。
人生をサーフしたい。自分ではコントロールしきれないものを楽しんで、乗りこなそう、巻き込まれよう。
音楽とか絵とかスポーツとか、そういう子どものときにスポットライトを浴びるような「才能」に恵まれなかった僕にとって、「言葉」というのは唯一他の人よ りも自信を持てるものかもしれない。
自分の思いのたけを言葉にして、納得できる文章に落とし込んでいく作業が好き。
とりわけ高校生くらいの時から、「詩」のような形で言葉を綴るようになりました。
別に、これが「詩」だ!っていう明確ななにかがわるわけじゃないし、
普通の文章とはスタイルが違うから、しいて言えば「詩」なのかなって思っているくらい。
高校時代からそれなりの数を書いているし、書いたものはMixiとかブログでも載せたりもしてきた。
でも最近、ここのところずっと自分が「詩作」をできていないという事態を改めて考えてみて、
それって自分のライフスタイルの中で非常に重要な欠落を示しているのかもしれないと思いいたったのでした。
それはなにか。
僕が詩を書くとき、それはいつも、詩の形にして思いを届けたいと思う「誰か」がいる。
悩んでいる人なのか、苦しんでいる人なのか、迷っている人なのか、そういう人たちが僕の周りにいて
その心に触れて、何かをしてあげたいと思うとき、僕は自然とノートの端に言葉をつづっていた。
口から伝えるよりも、時間をかけて何度も書き直して形にした文章を届ける方が
彼ら、彼女らの心に届くような気がしたから。
そうした自分の「詩作」に対するモチベーションを改めて突き詰めたとき
最近僕の周りに、そういう風に「言葉」を届けたいという人がどれくらいいるだろうかと訝しんだ。
別に、昔の方がいまよりも周りに悩んでいる人や苦しんでいる人が少ないなんてことはないはず。
ただ、僕が彼らのそういう部分に気が付けていないだけなんだろうって。
彼らの心の部分に触れられていないんだろうって。
大学までの生活に比べると、生活する環境が限定的ではない分だけ
生活を「共有」している人が少ないのは確か。
でもそれをいつまでも言い訳にしてはいけないよね。
もっと深く人と付き合っていかないといけないはずなんだ。
浅い人間関係をいくらたくさん作ったって、それで満足してはいけない。
本当に心に触れられる関係であり、
喜びを二倍に、悲しみを分け合えるような関係を
もっともっとたくさん持っていかないとなー
「君の憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」
自分の思いのたけを言葉にして、納得できる文章に落とし込んでいく作業が好き。
とりわけ高校生くらいの時から、「詩」のような形で言葉を綴るようになりました。
別に、これが「詩」だ!っていう明確ななにかがわるわけじゃないし、
普通の文章とはスタイルが違うから、しいて言えば「詩」なのかなって思っているくらい。
高校時代からそれなりの数を書いているし、書いたものはMixiとかブログでも載せたりもしてきた。
でも最近、ここのところずっと自分が「詩作」をできていないという事態を改めて考えてみて、
それって自分のライフスタイルの中で非常に重要な欠落を示しているのかもしれないと思いいたったのでした。
それはなにか。
僕が詩を書くとき、それはいつも、詩の形にして思いを届けたいと思う「誰か」がいる。
悩んでいる人なのか、苦しんでいる人なのか、迷っている人なのか、そういう人たちが僕の周りにいて
その心に触れて、何かをしてあげたいと思うとき、僕は自然とノートの端に言葉をつづっていた。
口から伝えるよりも、時間をかけて何度も書き直して形にした文章を届ける方が
彼ら、彼女らの心に届くような気がしたから。
そうした自分の「詩作」に対するモチベーションを改めて突き詰めたとき
最近僕の周りに、そういう風に「言葉」を届けたいという人がどれくらいいるだろうかと訝しんだ。
別に、昔の方がいまよりも周りに悩んでいる人や苦しんでいる人が少ないなんてことはないはず。
ただ、僕が彼らのそういう部分に気が付けていないだけなんだろうって。
彼らの心の部分に触れられていないんだろうって。
大学までの生活に比べると、生活する環境が限定的ではない分だけ
生活を「共有」している人が少ないのは確か。
でもそれをいつまでも言い訳にしてはいけないよね。
もっと深く人と付き合っていかないといけないはずなんだ。
浅い人間関係をいくらたくさん作ったって、それで満足してはいけない。
本当に心に触れられる関係であり、
喜びを二倍に、悲しみを分け合えるような関係を
もっともっとたくさん持っていかないとなー
「君の憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」
眠いけどどうしても書きたいので書きます。少々おつき合いを。
今日、書店でぼ〜っと本を見ていたら発見してしまいました。
「天の瞳 最終話」
灰谷健次郎さんの長編小説。僕は中学三年の時から読み始めて、計8冊。主人公の倫太郎が幼稚園から始まって、中学校に入ったところでした。
ところが、2006年に灰谷さんがガンのためにお亡くなりになって、作品は未完のままに。
僕の中で、倫太郎の話は止まってしまっていました。倫太郎だけではないです。青ポンもタケミも、ミツルも、そして彼らを取り囲む魅力的な人たちの人生も、途中で止まってしまった。
読み始めてから年月は経ち、8冊目のあすなろ編2がでてからも、長い時間が過ぎました。その間に僕は大人になってしまっても、倫太郎は中学生のまま。
倫太郎から学んだことがたくさんあった。倫太郎のおじいちゃんから学んだこともたくさんあった。倫太郎の母のメイの教育観も、大好きだったし、ミツルの姉の慧子にはあこがれのような気持ちすらあった。
子育てへの考え方も、人権の意識も、人との接し方も、僕の考え方の根幹には彼らからの影響があった。それくらい自分にとって、大きな本だったのです。
もう一生あえないと思っていました。だから書店で見かけたときの衝撃と、そして歓喜は他のものには代えがたい、何とも言えないものでした。
一冊には全然満たない、数十ページの遺稿。
書き途中で無くなったから、終わり方なんてまとまりもなにもない。読み切ったところで、止まったストーリーが完結するわけもない。
そんなことをわかりながら、一ページ一ページ、いや一行、一文字を追いながら読んでいきました。
その中には主人公の倫太郎はでてこない。彼の幼なじみの青ポンと、彼のおじいちゃんと、タモツという中学の不良グループのメンバーの会話だけ。
学校という環境で、その枠のなかで生きれず、教師から蔑まれ、疎まれ、「人間として扱われていない」と狂犬のようなすさんだ心を持っていたタモツ が、倫太郎や青ポンとの出会いを通じて、少しずつ心を開いていっていた。青ポンのおじいちゃんが聞き役となって、荒んだ心が少しずつ開かれていく。
それは自己との対話だった。
人に出会い、触れ合い、出会いを通じて、自分と向き合っていく。そんな人生を歩んでいけたらといつも思っている。そんな人生を子どもにも歩ませることができたらと。
短い、ほんと短いたった96ページ。でも、やっぱりこの本は僕に灯を与えてくれた。
もうこれ以上は絶対に進むことはないけど、僕の中で育んで行くしかない。
忘れないように、心に刻んで、また明日からも歩んでいこうと思う。
今日、書店でぼ〜っと本を見ていたら発見してしまいました。
「天の瞳 最終話」
灰谷健次郎さんの長編小説。僕は中学三年の時から読み始めて、計8冊。主人公の倫太郎が幼稚園から始まって、中学校に入ったところでした。
ところが、2006年に灰谷さんがガンのためにお亡くなりになって、作品は未完のままに。
僕の中で、倫太郎の話は止まってしまっていました。倫太郎だけではないです。青ポンもタケミも、ミツルも、そして彼らを取り囲む魅力的な人たちの人生も、途中で止まってしまった。
読み始めてから年月は経ち、8冊目のあすなろ編2がでてからも、長い時間が過ぎました。その間に僕は大人になってしまっても、倫太郎は中学生のまま。
倫太郎から学んだことがたくさんあった。倫太郎のおじいちゃんから学んだこともたくさんあった。倫太郎の母のメイの教育観も、大好きだったし、ミツルの姉の慧子にはあこがれのような気持ちすらあった。
子育てへの考え方も、人権の意識も、人との接し方も、僕の考え方の根幹には彼らからの影響があった。それくらい自分にとって、大きな本だったのです。
もう一生あえないと思っていました。だから書店で見かけたときの衝撃と、そして歓喜は他のものには代えがたい、何とも言えないものでした。
一冊には全然満たない、数十ページの遺稿。
書き途中で無くなったから、終わり方なんてまとまりもなにもない。読み切ったところで、止まったストーリーが完結するわけもない。
そんなことをわかりながら、一ページ一ページ、いや一行、一文字を追いながら読んでいきました。
その中には主人公の倫太郎はでてこない。彼の幼なじみの青ポンと、彼のおじいちゃんと、タモツという中学の不良グループのメンバーの会話だけ。
学校という環境で、その枠のなかで生きれず、教師から蔑まれ、疎まれ、「人間として扱われていない」と狂犬のようなすさんだ心を持っていたタモツ が、倫太郎や青ポンとの出会いを通じて、少しずつ心を開いていっていた。青ポンのおじいちゃんが聞き役となって、荒んだ心が少しずつ開かれていく。
それは自己との対話だった。
人に出会い、触れ合い、出会いを通じて、自分と向き合っていく。そんな人生を歩んでいけたらといつも思っている。そんな人生を子どもにも歩ませることができたらと。
短い、ほんと短いたった96ページ。でも、やっぱりこの本は僕に灯を与えてくれた。
もうこれ以上は絶対に進むことはないけど、僕の中で育んで行くしかない。
忘れないように、心に刻んで、また明日からも歩んでいこうと思う。
「知っているのは、名前だけ。でも、それで充分だった―」
という帯キャッチに魅かれて衝動買いした、有川浩の「植物図鑑」という恋愛小説ですが、思った以上に楽しんで読み終えました。「図書館戦争」シリーズで有名になった作家さんですが、女性視点のべたべたな恋愛小説と社会問題を織り交ぜる作風は定評があるようです。いろいろと読みながら感じたことと、最近ずっと思っていることを併せて書き綴ってみたいと思います。
ストーリーは、「ある日突然、美少女が自分の生活にやってくる」という、いわゆる「落ちもの」といわれる展開の逆パターンで、主人公の女性の生活に突然生き倒れのイケメンが登場するという、まぁどこかで聞いたことのあるような話です。
変わっているのは、その彼が「植物好き」で「料理上手」であるというところで、一宿一飯のお礼に彼が作った翌朝の朝ごはんが、都会育ちで外食ばかりしていた彼女の心を鷲掴む。そして、なだれ込むように「家政“夫”」として同棲生活が始まるという、現実ではありえそうもないけど、フィクションとしては書き古された感のある始まりです。
そこからしばしクリーンな関係を続けながら、二人は週末になると「散歩」と称して外で繰り出して、普段なら「雑草」と括られている様々な植物を、彼のうんちくを混ぜながら採取し、おいしく料理しては平らげていくのです。都会育ちの彼女も、彼に感化されて植物に興味を持ち、ずいぶんとたくましくなります。「雑草という名の草はない」というのが二人の口癖ですが、普段見慣れている植物も、都会暮らしではあまり見かけない草花も、その生態から料理法まで詳しく知ることができます。料理好きの僕ですが、山菜や道端の草を取って料理なんかしたことないのですが、草花を生活に取り入れている二人の描写がうらやましくなり、そこらの植物に視線を落とす回数も増えました。
そこから二人の恋愛の展開も、面白いのですがあまり触れないでおきます。読みながら感じたのは、「季節を味わって生きるっていいな」ということです。日本は世界の中でも四季の彩りが豊かな国だと思います。生活の中で春夏秋冬を感じて、さまざまな生活習慣や文化・慣習にも反映されていると思います。しかし、食に関して言えば、グローバリゼーションの影響か、はたまた輸送技術の発達によってか、季節とのつながりはどんどんと希薄になっている気がするのです。
今の若い人たちで、野菜の旬をちゃんと知っている人はどれくらいいるのでしょうか。僕もなんとなくは知っていてもちゃんと知っているわけではありません。それはスーパーやコンビニで、大概のものが季節を問わずに手に入ってしまう環境があるからだと思います。「いつでも、どこでも」というのは便利に聞こえるかもしれません。でもそこには深みが欠けている気がします。「旬」というのはいつ獲れるかだけではなく、「いつがおいしいのか」という概念です。そして「いつ一番栄養があるのか」ということでもあります。「いつでもどこでも」のせいで、「本当においしい時期」も「本当に栄養がある時期」も知らずに生きてしまっているのは、とてももったいない気がするのですね。
先々週の開発教育の授業で「地産地消」がテーマとなりました。地域で取れるものをその地域で消費しよう、という考えで、輸送費や運送によって排出される温室効果ガスが少ないことから、エコロジーでエコノミーであると最近広がっていますが、地産地消は万能薬ではなく、限界があります。土地によってはバラエティが少なく、都会に近づけば近づくほど、それだけで生きていくことは難しいのです。地産地消は一つの選択肢であって、だれもができることではないです。
それに比べると、季節を感じて、旬のものを食す、Seasonal dietとでも言える生き方には限界もなく、もっと多様に受け入れられる気がすると思っています。季節に合ったものを食べていれば、保存の量は減りますし、違う気候帯の地域から無理して輸送する必要も減ります。それでいて、一番おいしく、一番栄養価も高くご飯を食べられるのですから。
「いつでも、どこでも」ではなく、「今だから、ここだから」をもっと大事にして生きていくことは、「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」の時代の明確なアンチテーゼとして成り立つのだとおもいます。
季節の移り変わりとともに、「あぁ、暖かくなってきたから、そろそろあの料理が食べたいな」とか「冬になる前に、あれを食べよう」と思いを巡らせ、一品一品に思い出を重ねなることができます。そんな風に豊かに生きたいなと思うのですね。
「植物図鑑」という本は何げなく手にとりましたが、まさしくめぐり合うべくして出会った本だなという感じですね。
P.S. 片思いは緑茶のように渋く、茶渋のようにしつこい、と感じる今日この頃です(笑)
2年ぶりに海外にでて、移動時間がたくさんあったり、普段と違う環境に置かれていろいろと考えることがあります。
なんで考えるのかって言うと、それは考える以外にやることがない時間がたくさんあるからなのかもしれないって、そう思うのです。
日本にいると、色々なお店が周りにあり、携帯電話は常にオンで、インターネットの世界につながっている。空いた時間があると携帯でいろいろ調べた り、携帯からメールをチェックしたり、メールしたり、お店に入って色々見たり、コンビニで立ち読みしたりしてしまう。家でもたくさん本や資料があって読ん だり、テレビ見たり、動画を見たり。
何かすることがあると、あえて「考える」という行為を積極的にしなくなる。他に何かがあればあんまりしない。
携帯にしても、コンビニにしても、「いつでも」「どこでも」です。
そこにある「自由さ」とか「便利さ」という概念は一体僕らを幸せにしているのだろうか、とも思うのです。
僕らはその自由さや便利さの代わりに失っているものがあるんじゃないか、とも思うのです。
僕だけなのかもしれないのだけど、何でもできるという自由を奪われたとき、自分の思考は逆に自由に広がり、いつもより活性化したりします。
まるで体に与えられた不自由に反発するかのように、いつもならば考えないようなことを、普段とは違うところまで突き詰めて、新鮮な思考をもたらしてくれます。
旅をしていると、そんな時間がたくさんある。移動しているときとか何かを待っているとき、普段なら何気なく手にしてしまう携帯電話がないから自然 と思考が深まり広がっていく。自己との対話が始まる。旅をして色々なものを見ることよりも、僕はむしろそうした自分と向き合う時間の方が旅の醍醐味のよう にすら思えるのです。
時折ニュースなんかで、現代は「情報の氾濫している」と言っていて、それが様々な社会問題の鯨飲のように語る評論家もいたりする。でも旅をしなが ら思考の自由について考えていると、情報が氾濫していることが問題なのではなく、情報を取り込み、自分なりにかみ砕き、処理し、自分の考えに反映させると いうような時間が足りてないのではないかとも思える。
それってとても必要なことなのだけど、なかなか「日常」のなかではできないのかもしれない。
だから旅をすることが必要なのかも。世界を見ながら、自分と向き合うために。
さて、一応もう一個前の日記も読んでみてくださいね。
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カテゴリー
プロフィール
HN:
Junya Tanaka
性別:
男性
職業:
NGOスタッフ/参加型の場づくり研究・実践家
自己紹介:
青山学院大学の社会人大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコースで参加型の場づくり、ワークショップデザイン、ファシリテーションなどについて研究をしながら、震災関連の仕事をしています。
2007年5月南カルフォルニア・オレンジ郡にある4年制教養大学を卒業しました。その後にすぐにイギリスの大学院に行くつもりが、もろもろの事情でいかないことにし、日本に帰国しました。なぜかいまだに日本にいます。人生思ったようにはならないです(笑)
後悔はしていませんが、試行錯誤です。
2011年5月にまたまた転職しました。震災関連の仕事をするためにアメリカ系のNGOで働き始めました。
また休日や平日の夜にはイベントや会議や参加型のプロセスのデザインやコーディネートをやったり、さまざまな研修や会議のお手伝いをしてます。ご関心があればお声掛けください。こういう研修ってふつう結構高いので、学生が参加できる金額でやれたらなと思っています(参加費応相談)
◇参加型ファシリテーション入門編ワークショップ
◇傾聴力ワークショップ
◇アイスブレーキング体験学習ワークショップ
◇開発と気候変動を考える参加型ワークショップ
<現在企画中>
▽発問力ワークショップ
▽ワークショップデザインコース
2007年5月南カルフォルニア・オレンジ郡にある4年制教養大学を卒業しました。その後にすぐにイギリスの大学院に行くつもりが、もろもろの事情でいかないことにし、日本に帰国しました。なぜかいまだに日本にいます。人生思ったようにはならないです(笑)
後悔はしていませんが、試行錯誤です。
2011年5月にまたまた転職しました。震災関連の仕事をするためにアメリカ系のNGOで働き始めました。
また休日や平日の夜にはイベントや会議や参加型のプロセスのデザインやコーディネートをやったり、さまざまな研修や会議のお手伝いをしてます。ご関心があればお声掛けください。こういう研修ってふつう結構高いので、学生が参加できる金額でやれたらなと思っています(参加費応相談)
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◇傾聴力ワークショップ
◇アイスブレーキング体験学習ワークショップ
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