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コミュニケーション・ラボラトリーの公式ブログです。イベントの告知のほか、いままで書き溜め、Mixiなどで公開していた文章なども公開していきます。
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ふと何気なく詩を書こうと思いたった。
形など気にせずに、韻なども気にせずに
思いなども気にせずに、読む人も気にせずに
ただ思うがままに詩を読もうと思った

心が満たされないときに 何で埋めますか?
さびしくてしょうがないときに、それでもそれを表現できないこと
ありませんか?
誰もが誰も、自分の気持ちを思うがまま表せるわけでもなく
自分の外に出ないまま消えていく思い達
消えることすらできず残り続ける思い達
あなたはどれくらい持っていますか?

消えていった思いはどこへ行くのでしょうか?
残った思いはどこで滞るのでしょうか?
いまだにあなたの外に出るのを
待ち続けてはいないでしょうか?

言葉には言霊が宿る
でも言葉にされなかった思いにも
同じように命が宿る
そんな命をあとどれくらい僕達は抱いていくのだろう
そんなことを思ったある日のひと時

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人は誰しもエゴを持っている
自分の生き方を貫きたいと思っても
自分の気持ちに正直に生きたいと思っても
それが誰かを傷つけることになってしまうなら
誰かの犠牲の上に自分の思いを貫こうとしてしまうなら
それは自分のエゴにすぎない

他人への気遣いと自分のエゴ
二つの思いの板ばさみになって人は生きている
どちらもないがしろに出来ない
でも時にどちらかを選ばなければいけない
そんな風に思っていたりした

自分の正直な思いを誰かに伝えるとき
それは時として相手を傷つけるかもしれない
言葉が重荷となって相手にのしかかるかもしれない
相手を苦しめるかもしれない
その可能性を知りながらも 
正直な思いだけを誰かに伝えようとするなら
それもやはりエゴにすぎないのだろう

自分の思いを心の中だけに留めておくのは不健康
積もり蓄積して心を埋め尽くしてしまう
そして人はその圧迫に苦しみ 相手のことを考えずに
思いをぶちまけてしまいそうになる

僕にもそんなエゴがあった 
ほかの誰にでもあるようにエゴがあった
そして僕はそんなエゴから目をそむけて生きてきた
汚い部分を見つめずに生きてきた
何度も何度もぶちまけたい衝動に駆られながら
その感情を無視し、ごまかし、隠し、自分をだましてきた
誰かを傷つけることを恐れていた

自分には誰かを傷つけてまで通したいと思う自分がなかった
そんな覚悟がなかった
でも
本当にそうなのだろうか
僕になかったのは誰かを傷つける覚悟なんかじゃなくて
誰かを本当に幸せにするする覚悟がだった
一時的に傷つけたり苦しめたとしても
最終的に絶対に相手を幸福にするという決意
自分に足りないのはその覚悟だった

恐れていたのは人を傷つけることなんかじゃない
自分が傷つくことなんだ
相手の幸福を本当に願い、祈り、行動に移すなら
おのずと選ぶべき道は定まる
誰かを傷つけてしまうかもしれないのなら
自分も責任と言うリスクを負わねばならない
幸福と成長を約束する責任を

決して人を傷つけてしまうことを肯定するわけではない
なぁなぁで生きていくだけなら
目をそむけて生きていけば良い
ただ本当に誰かを幸福にしたいと言う決意もなしに
いったい僕は何をなすことができるのだろうか

エゴはエゴ
それはなんら変わらない
ただ目をそむけることはやめた
自分自身のエゴの中に相手すらも含めることで
自分の道を貫きながら、周りの人も大切にしていきたい
自分を幸福を真剣に考えながら 大切な人を幸福にしていきたい
その決意が その覚悟があって
初めて自分のエゴを通そうと決めた

この選択が正しいかどうかなんてわからない
いや、この選択を必ず正しいものとするための決意
すべては今からの自分で決まる
エゴに負ければ自分ひとりの道
エゴを超えれば共に幸福の道

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強くなりたい
本当の実力をつけたい
どんなクラスをとっているとか
宿題が多いとか
教授の成績のつけ方が厳しいとか
テストが難しいとか
忙しいとか
そんな言い訳をする必要がないくらいの
本物の実力をつけたい

卒業して世界に出れば
実力主義・結果主義
どんなに崇高な思想を持っていても
力がなければ誰も認めてくれない
誰も救えない
正しい思想を広められるだけの
実力を持たなくてはいけない
世界中の違う場所で学んだ
実力者たちと
互角以上の戦いをするために
言い訳をする必要がないくらいの
どんな状況でも最高の結果が残せるような
そんな実力をつけたい

怠けたい気持ちとか
現実から逃避する時間とか
散漫する集中力とか
そんなものを全部かき消して
やるべきことをやるべきときにやる
瞬間瞬間に生きることで
一日の中に何日分もの価値を創造すること
言うのは簡単なこのことを
着実に毎日実践できるのが
本当の実力者

一生懸命働いて送り出してくれる両親
倒れそうになるたびに励ましてくれる恩師・先輩
ともにがんばり、励ましあってきた仲間
自分を頼りにしてくれる後輩
そして世界で僕らの活躍を待ちわびている人々
苦しみの中で救いを待っている子どもたち

そんな彼らのことを思って
今日も弱い自分を切り捨てて
前に 前に 進んでいこう

言い訳なんていらない
後悔なんてする必要がない
そして自分の気持ちに妥協しない

強さとは心の強さ
弱い自分に勝てる強さ
左耳の後ろで誘惑するもう一人の自分を
断ち切る力
それは誰もが持てる力
誰もが持てる実力

その力は
朝の大いなる決意が生み出し
夜の反省へとつながるそのリズムの中で
その力はさらに高まっていく
朝の勝利が一日の勝利へ
一日の勝利から人生の勝利へ
そうした力をつけたい
そしてつけた力で誰かを救いたい
その思いを胸に刻んで
今日からまたがんばっていこう

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今日は社会学のクラスで教育における性差について話しあい、教育にかかわる人々、特に教師の態度がどのように生徒の学業成績に影響を及ぼすのかについて議論をした。その議論をしながら、久しぶりに自分のジェンダーに対する視点を思い返してみた。

大学に入ってから、いろいろな授業でジェンダーの問題について語り合う機会があったが、僕はそのたびに疑問に思うことがあったのです。

うちの大学の創立者は「21世紀は女性の世紀である。」と宣言しています。今まで女性の社会的地位は低く、さまざまな場所において差別されてきた ので、そうした女性が男性と同じように尊敬を持って接せられ、尊厳を持って生きることが出来る社会を目指すこと。また、歴史において戦争をしてきたのがい つも男性であるという認識から、世界平和を実現するために、政治やビジネスなどさまざまな分野において、女性の進出が必要であるということ。これは本当に すばらしい考えであると思う。

しかし世の中のいわゆるフェミニスト運動を見ていると、男女の雇用機会などを平等にする流れなど、男性と女性の人数を等しくすることがまるで平等 だといわんばかりの雰囲気を感じるし、実際に数を等しくすることを目標としている団体・企業もたくさん存在する。しかし果たしてそれで本当に「女性の世 紀」を実現できるのだろうか?

政治の世界やビジネスの世界を見てみると、成功している女性は、高圧的で、言いたいことをはっきりいい、独善的ともいえ、そこらの男性よりも「男 性的」である印象を受けないだろうか。政治の世界で言えば「鉄の女」といわれたイギリスのサッチャー元首相、日本の田中真紀子元外相などがそれに当たる。 女性が成功するために、男性よりも男性的にならねばならないのが、今の世の中の現状なのかもしれない。しかしその先に男性と女性が多くの分野において人数 が等しい世の中が実現できたとしても、そうした女性の多くが男性的であるならば、決してそれは「女性の世紀の到来」とはいえないのではないでしょうか。ま た近年の日本でも、男性的な女性が人気を博したりするが、そうした「女性の男性化」が男女平等への道だと勘違いしてしまえば、本当の意味での男女平等は決 して訪れないとおもう。

僕は女性の世紀を実現するためには「女『性』」(アクセントを前に置く)つまり、女性の女性としての性質にもっと焦点を当てなければならないと思 う。英語で言うならWomenではなくFemininity(女性らしさ)。女性の優しさ、エンパシーといわれる思いやりの心、命を生みはぐくむの力。そ うした女性らしさが男性らしさと同じように、いやそれ以上に市民が持つべき資質として認められていく必要があると思う。男らしい女性が社会で成功している のは、彼女らの中の「男性的な部分」が評価されているのであって、「女性」が評価されているわけではないということを深く認識する必要があると思う。

ここで大事な点は、男性も、女性が持つ女性的な性質を持つべきであるということであり、女性的な男性も認められ評価されるべきであるということで す。男性的な部分のみを評価する社会であれば、「男性的な男性」と「男性的な女性」しか成功しないことになる。そうではなく、等しく男らしさと女らしさが 認められることによって、「女性的な男性」も「女性的な女性」も同じように認められるべきであるからです。むしろすべての人々、自分たちの中に男性らしさ と女性らしさの両方があることを認識し、そのよい部分だけを出していくべきなのでしょう。

僕の大学の創立者が「21世紀は女性の世紀」というのは、女性の社会進出を推奨するためだけではなく、同時に男性も女性的資質を得ることで、平和 を推進していくためでもあり、なかんずく、男も女も、双方のいい資質を兼ね備える総合的人間を教育するためだとおもっています。もちろん、その段階的な実 現の中で、男女間の人数的な差を解消することは大事なステップであると思っています。ただ果たすべき目標がそこではないことを認識せずに進んでしまえば、 たどり着いた先がまったく違うこともありえる。だから斬新的にでも「女性らしさ」が認めらていく社会を構築していくことが必要だと思う。

ここまで長く読んでくださってありがとう。男性からも女性からも意見がほしいです。よろしく。

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   昨日、コロンビア大学ティーチャーズカレッジで教育哲学を教えていらっしゃるディビット・ハンセン教授が来校され、特別講義を行ってくださいました。
講義のテーマは「世界市民教育」について。これは最近の僕が研究したいと思っているテーマで、卒論にしようかとここ数日考えていたものだったの で、タイミングのよさにびっくりした。教育哲学の方向から世界市民教育に必要な要件を模索するハンセン教授とその応用と実現性について考えている僕とはす こしアプローチが違いはしたけど、教授の哲学的アプローチは自分のアイディアにかけていたものだったので、すごい参考になった。もうひとつの大きな違いは 教授が「Cosmopolitan Education」と言うのに対して、僕は「Global Citizenship Education」と言っていた。この二つは多少の違いはあっても考えていたものが似通っていたのでよかった。
世界市民教育とは僕の中では人々が世界についての認識を深め、グローバル化した世界の相関性と相互影響を理解し、その認識と理解の上で一 人一人が行動を取れるように教育とエンパワーメントをしていくことにある。経済も環境問題も政治の問題も、このグローバル化した社会の中では、「それぞれ の国の問題」だと言い切れない。日本が汚した海はほかの国の海とつながっているし、他国からやすく輸入した製品が国内を氾濫し、また輸出した高額な国内製 品が他国の企業力を下げ、同時に他国経済を圧迫する。石油の問題は世界に影響を与える。
こうした世界において、教育は新たな局面を迎えなければならないのは当然。でも多くの国の教育が「自国の社会において効率よく、また適切 に行動できる市民」をはぐくむにとどまっていてはいないだろうか。どうすれば世界的視野を持った市民を育てられるのか。これが21世紀の課題だと思う。
ハンセン教授は世界市民を育てるための要件として4つのことをあげた。それは、機械的ではない真のコミュニケーション、さまざまな考え方 を受け入れ異なる考えを容認する広い思想、知識を行動へと変え行く知的責任、そして想像的創造力への約束。これらの要素をどうやって教育現場に応用するか が課題であると。
世界市民教育の中でハンセン教授が大事だと感じていることは、地域性を無視してはいけないということでした。ここについては大いに賛成で す。世界のことを知る以前に、僕たちは自分たちの個性を作り出している、地域性、人種性、国民性、そして文化を理解しなくてはならない。この前、社会教育 学の授業で読んだ論文でも、教育において、三段階のアイデンティティを作り出す必要があると。それは人種および地域に住む自分のアイデンティティ、国民と してのアイデンティティ、そして世界市民としてのアイデンティティである。これらすべてをバランスよく保持することが世界市民であって、世界のことだけを 知った世界かぶれが決して世界市民ではない。Think Globally, Act Locallyといえば簡単だけど、その更に深い知って、世界市民教育の可能性を模索していきたいと思う。

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どんなに辛いときでも、どんなに忙しいときでも、今、自分がしていることが何のためなのかを忘れてはいけないと思う。
僕が今こうして大学で苦しみながらも勉学に取り組んでいるわけ、それはやっぱり世界のすべての子どもたちへ教育を届けたいという思いなんだと思う。
教育なしで今の僕はいない。教育があったから自分の夢を見つけることができた。そしてその夢をかなえるためのプロセスも教育でしかない。
教育がなければ自分はどうなっていたのかとおもうと考えるだけで恐ろしい。でも世界にはそんな大事な教育を受けることができずにいる子どもがたく さんいる。字を読むこともできず、計算もできずに一生を終えていく子どもがいる。夢を抱くことができない子どもがいる。夢を抱いてもそれをかなえる手段す らしらずにいる子どもがいる。知っていても機会すら与えられない子どもがいる。
子どもの労働。子どもの買春。子どもの人身売買。子どもの性的搾取。子ども兵士。学びの場から引き離されて、だまされ、働かされ、選択肢もなく、搾取され、命を削らされる子どもたち。
根源的な原因は貧困、紛争、そして根強い偏見。そうしたものから彼らを解放して教育による力を与えてほしい。いや、彼らの中に潜在する力を引き出させてあげてほしい。夢を抱く力。夢をかなえる力。
彼らは決して無力ではなく、羽をむしとられた鳥のようで、当たり前に与えられるべき教育さえあれば自由に空を飛んでいるだろう。
今の僕を奮い立たせてくれるもの、それは自分に与えられた教育への感謝とそれをより多くの人に届けることで報恩すること。
世界中のすべての人を同じスタートラインに立たたせよう。何百メートルも後ろからスタートするような人がいるこんな出来レースはもうごめんだから。
大人の事情で命の危険にさらされる子どもがいてはいけない。銃弾の雨におびえながら眠る日々にピリオドを打とう。子どもの意思に反して働かされたり、体を売られたりすることがあってもいけない。
僕たちがそんなことにおびえたことがあっただろうか。自分さえよければいいのだろうか。
誰かの犠牲の上に一部の人が裕福になるような資本主義はもうごめんだ。
どんなに努力しても評価されないような社会主義ももうごめんだ。
権力におびえて、命令に従わなければ生きていけない軍国主義もごめんだ。
僕らが求めているのは誰もにおなじ条件が与えられる世界。それは差別の上での自由競争を支える資本主義とは違う。それは社会主義の理想とも違う。新しい世界。

すべての人に等しく教育を。
すべての人に等しく夢を見る力を。
すべての人に等しく夢をかなえる力を。
すべての人に等しく権利を。
すべての人に等しい命の安全を。
すべての人に等しいスタートラインを。

みんながいっせいにスタートしたら、ほんとに速いのはだれなのかな?社会を席巻して我が物顔の男たちも、白人も、多数派の人も、八百長なしで勝ち 続けることが出来るのかな。この21世紀のうちに、そんな平等の世界が実現できるように、そしてその実現に少しでも自分が貢献できるように、今は勉学に励 もう。こうしている間にも多くの人が苦しんでいるから。

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カウンター
プロフィール
HN:
Junya Tanaka
性別:
男性
職業:
NGOスタッフ/参加型の場づくり研究・実践家
自己紹介:
青山学院大学の社会人大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコースで参加型の場づくり、ワークショップデザイン、ファシリテーションなどについて研究をしながら、震災関連の仕事をしています。

2007年5月南カルフォルニア・オレンジ郡にある4年制教養大学を卒業しました。その後にすぐにイギリスの大学院に行くつもりが、もろもろの事情でいかないことにし、日本に帰国しました。なぜかいまだに日本にいます。人生思ったようにはならないです(笑)
後悔はしていませんが、試行錯誤です。

2011年5月にまたまた転職しました。震災関連の仕事をするためにアメリカ系のNGOで働き始めました。

また休日や平日の夜にはイベントや会議や参加型のプロセスのデザインやコーディネートをやったり、さまざまな研修や会議のお手伝いをしてます。ご関心があればお声掛けください。こういう研修ってふつう結構高いので、学生が参加できる金額でやれたらなと思っています(参加費応相談)
◇参加型ファシリテーション入門編ワークショップ
◇傾聴力ワークショップ
◇アイスブレーキング体験学習ワークショップ
◇開発と気候変動を考える参加型ワークショップ
<現在企画中>
▽発問力ワークショップ
▽ワークショップデザインコース
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