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コミュニケーション・ラボラトリーの公式ブログです。イベントの告知のほか、いままで書き溜め、Mixiなどで公開していた文章なども公開していきます。
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    「時に」

時に悲しみ 頭(こうべ)を垂れて
足下(そっか)に咲きし花を知る
儚くも健気なその美しさに
守るべき小さき命を悟り
この悲嘆の意味を知る

時に迷いて あたりを眺め
地平に沈む 夕焼けを知る
流れる緋雲の行くその先に 
苦難にあえぐ民の声聞き
この憂慮の意味を知る

時に悔やみて 背を振り返り
傍らに苦しむ友を知る
同苦の彼へ手を差し伸べて
共に進むべき道歩みて
この宿命の意味を知る

時に苦しみ 天を仰ぎて
闇夜に輝く 明星を知る
遥かに広き宙(そら)に包まれ
己(おの)が悩みの小さきを悟り
この逡巡の意味を知る

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感動の思い出を語ろう~横浜会議編その2~

<前回のあらすじ>
晴れて、世界会議の参加者となることができた僕は、当日、ロシア系のブロンドヘアーの七人組に取り囲まれてしまったのです。さて、運命はいかに!!

<続き>
さて、7人のロシア系のメンバーに取り囲まれた僕は何も悪いことしてないのにリンチされるのではないかと恐怖してました(そんなわけないのだ が)。かれらは「疲れた~。」「めんどくせ~。」「かたっくるし~。」と緊張した雰囲気の会場に飽き飽きしていたようだったのです。僕も緊張を和ませて、 しばし楽しい会話と英語でしていました。

あれやこれやと一日目のプログラムを自己紹介やこれからのスケジュールの設定、それぞれの国での問題状況の確認なので終了し、僕らは青年の家に帰ってきました。帰ってきたとはいえそれからも話し合いなどはたくさんあり、結局まともに寝れた日はあんまりなかったのです。

そんなある晩、僕が寝れずに青年の家をぶらぶらしていると、国際電話ができる電話の前でロシア系の子達が何人か待っていたのでした。なんだかホー ムシックにかかっていたみたい。ロシア語で話していたから何言っているのかわからなかったけど、声は涙声っぽくなってたからわかった。電話を待っている 間、そのうちのひとりと話そうと思ったんだけど、会話が続かない。なぜかっていうと彼女はほとんどロシア語しか話せない子だったのです。7人と話している ときは、寡黙な子なんだなと思っていたのですが、話さないんじゃなくて、話せないんだとその時気がつきました。その時、ロシア語学科で一年間ロシアに留学 した姉から借りたロシア語の辞書でなんとかコミュニケーションをとろうとするも、ぜんぜんだった。でも不思議と絆が深まった気がした。

会議が始まるまでの3日間、いろいろなことがありました。世界中から93人もの人が集まっていろいろ決めようって言うんだからそれは当然のことか もしれない。一番のネックは年齢の壁・言葉の壁。話し合いの最初のころは19歳から25歳までの「青年」たちが主に話をしていて、18歳以下の子どもたち はあんまり話せていなかった。たしかに100人近い話し合いで一番下は10歳とかの子ども達が意見を言うのは難しかったんだと思う。ただでさえ、通訳を聞 いてから意見を考えて、言おうと思ったらもう話題は変わってて、見たいな。後々になって気がついたことは、中学生とかは「訳された日本語」の意味が難しく てわかってなかったみたいだし。言語の壁と年齢の壁はやっぱりでかいんだと感じていました。

話し合いもぜんぜん進まなくて、いろんな人が勝手なことをしだしたり言い出したりして、僕のボイコットみたいなこともしそうになったし。会議が始 まったのに、提言は決まってなく、閉会式まで時間がない中、焦りもあってまとまらなかった。怒りながら、泣きながら夜中まで語り合ったりした日もあった。 そんな中で僕は、自分なりにいろいろ考えて行動しようと思った。若者と子どもの年齢の壁。英語圏とその他の国から来た人の言葉の壁。そういう壁を感じたと き、自分が子どもから青年になりかけの過渡期にあり、英語も日本語も話せる自分として、なんとか壁を崩すための役に立てないかなって思い立ったんです。

そういう努力がどう報われたのかはわからないけど、全体として少しずつまとまっていきました。提言もある程度の形となり、閉会式での発表の仕方も決まった。

そこで、また全員が集まって、提言を誰が読むのかを決めようということになった。決め方は立候補と推薦で出た人の中から多数決で決めようと。ん で、僕は出ようか迷ったけど立候補はしないでおこうと思った。実はそれまでにも二回ほど、発表する代表を決める機会があって、立候補したんだけど落ちてし まって。最後も出ようかと思ったけど、他にもっとふさわしい人がいるだろうと思ったんです。

何人か立候補と推薦が出たあと、司会の人が「他にいませんか~?」って聞いたときに例のロシア系のメンバーが手を挙げ、全員で立ち上がりました。(7人のうちの誰かを推薦するのかな・・・)って思ってたんですが、いきなり彼らが声を合わせて

「私達はジュンヤを推薦します」って。

「え!?」
会場内で一番驚いたのは僕だったでしょう。そんなことはぜんぜん予期してなかったし、言われたあとでもにわかには信じられなかったのです。彼らは推薦理由を続けました。

「ジュンヤは93人の代表の中で、一番いろいろな人とコミュニケーションをとろうとしていて、みんなのことを理解しようとしていました。そんな彼が代表するのがいいと思います。」と。

このときのうれしい気持ちと言ったらたぶん文章では表現しきれないと思う。遠くロシア方面から来た子達が、自分達の中から代表を推薦しないで、 あって一週間しかたってない僕を推薦してくれた。だれも見てないだろうと思っていたのに、いろんな人と話して、微力ながらグループの溝を埋めようとしてい た自分を見ていてくれていたこと。彼ら7人が声を合わせて僕を推薦してくれたことが7日間の中で一番うれしかったとおもう。

結局多数決の結果、提言を読む代表には選ばれることはできなかった。でも、それ以上に満足できるものを得れた思いでいっぱいだった。

代表になるとか、表彰されるとか、誰から見ても明らかな勲章みたいなものなんかより、誰かが心から自分のことを認めてくれることのほうが何倍もうれしいことなんだなって思えた。

横浜会議の成功とともに、僕の心に残り続ける最高の思い出でした。

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ちょっぴりしんどかった今週も山場を越えたので、ひさしぶりに感動の思い出を語ってみたいと思います。

<感動の思い出を語ろう~横浜会議編その1~>

何気ない行動でもそれは必ず誰かが見てくれていて、評価してくれる人がいる。たった一週間ほどの出会いなのに僕を評価してくれた彼らを決して僕は忘れない。


前回の思い出、ドイツへ旅立つ10日ほど前、まだ二学期が終わってないと言うのに僕は地元横浜にいました。それは2001年の12月。僕は「第二 回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」(開催地域の名から通称「横浜会議」)に、世界から集う93人の子ども・若者代表の一人として参加させても らうために学校を公認欠席させていただいていたのでした。
今回の思い出はその期間中にあった不思議な出会いについて。

<会議の概略(個人としての感想含め、事実とは違う場合があるかも)>
この横浜会議はユニセフが主催したもので、「子どもの商業的性的搾取」つまり子どもによる買春や子どものポルノ、それらを目的とした人身売買などについて各国の現状を議論・評価し、さらにこれからの行動計画を立てていくためのもの。
(「買春」と言う表現は「売春」から派生したもので、子どもが自分から「売って」いるのではなく、「買われて」いるのだと言う認識によって、買う側の責任に焦点をあてます。)

ではなぜその会議が日本で行われることとなったのか。
それは1996年に第一回の同会議がストックホルムで行われた際に、日本は世界有数の子どものポルノの排出国として非難され、さらに東南アジアに おいて多くの日本人が買春旅行をしたりするなど多くの問題を抱えていたため。しかしそうした状況に反して多くの日本国民はこれらの問題を知りません。

日本で会議を開催することで国内においての問題認識を高めることが狙いだったのではないでしょうか。

この会議において子どもと若者の代表が「公式参加者」として参加できたことは、子どもに関わる問題について、子どもの視点で見つめ、子どもの意見を取り入れて取り組んでいくことが大事だと言う認識からだとおもいます。

<思い出・本編>

会議が始まる3日前から「子ども・若者プログラム」と言うものが予定されていました。このプログラムでは各国の代表が交流し、子どもの商業的性的 搾取にたいする認識を深め、また会議で発表するために子どもと若者による提言を作成するためのものでした。プログラムが始まる前日、東京のユニセフハウス に日本からの代表33名のうち何人かが集まり、半年振りの再会で盛り上がったりしていました。

そして当日。世界からの60名ほどの参加者も含め僕達は会議が終わるまでの一週間、川崎青少年の家に泊まりこみ、みんなで時間を共にするのでした。

初日。自己紹介を含めいろいろとプログラムが進む中、せっかくの機会だからと僕はいろんな人と交流をしようとしていました。参加者のほとんどが非 日本人であるため、会議もプログラムもメイン言語は英語であって、当時留学に向けて英語の特訓中だった僕は積極的に英語を使っていろんな人と話しをしてい ました。実のところ33名の日本からの代表のうち、まともに英語でコミュニケーションができるのは10人も満たなかったんじゃないでしょうか。とくに高校 生以下だと僕も含め5人ぐらいしかしゃべれる人はいませんでした。だからそういう意味もあって、休み時間とかに海外からの代表と交流したい子が、僕を通訳 にして話をしたりしてました。

そんなこんなでちょっと疲れてしまった僕が、プログラムの合間に休憩していると、なにやらブロンドの髪をした7人組が、僕のほうに向かってやって きたのです。かれらはロシアを含め旧ソ連の国から来た代表団のメンバーでした。彼らは僕を取り囲んで、「ちょっと外へ行こう」と英語で言ってきまし た。(え・・・何されるの・・・)と思いつつ、逆らわないほうがいいとおもい、そのまま連れ立って外に行ったのでした。

(長いのでその2に続く)

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『鏡』

鏡に映る私は虚像 
本当の私とは違う映像
偽りの私を見せている 
私は自分を偽って見せている

今まで自分が創り上げてきた 
イメージは実は自分とは違って
ときよりそのギャップに気がついて 
悩んだりするときもあったりするんだ

でも創り上げてきた自分の虚像は 
自分の理想の反映だったりして
そのギャップを埋めるための努力が
たしかに自分を導いてくれました

忙しい毎日に追われていると 
本当の私すら見失ってしまって
周りに合わせ 期待に応え 
自分のしたいこともわからなくなって

それでも流れていく時の流れで 
かけ離れていく実像と虚像
自分が創り上げていたイメージは 
いつしか周りに創られていました

ある日 ふと足を止めて 
沈み行く夕陽をながめていました
街の喧騒から身を離したときに 
突然 不安に襲われました

誰が 本当の自分を 
知っているのだろうって 
涙あふれそうになって
とぼとぼとひとり歩きだしながら 
本当の孤独を噛みしめていました

鏡に映る私は虚像 
本当の私とは違う真相
偽りの私を見てきたあなたは 
実像の私を知りはしない

それでも過ぎていく時の流れに
忙しさで忘れ去ろうとする虚しさ
感情隠して 周りに歩調合せて
怒りも 不安も 苛立ちも すべて偽ってました

偽物の笑顔に装った毎日に
疲れはてて 苦笑いに変わる日もあって
そんなちょっとした私の変化に
気づいてくれたあなたがそこにいました

「無理して笑わなくていいよ」
怒りも 不安も 苛立ちも すべて吐き出して
それでも私、認めてくれる 
あなたの存在に涙するばかりでした

その時まさにあなたは鏡のようで 
私の心をきれいに映し出して
私は自分の実像を初めて 
じっくりと見つめることができました

鏡に映る私は虚像 
本当の私とは別々のもの
あなたと言う鏡に映し出されて 
私は自分の実像を知りました

心の内側に光る鏡
曇っていたから 自分うつしだせなかった
いつか自分の胸の鏡で 
本当の自分を映し出せるように

鏡を磨こう ただひたすらに
一心不乱に磨いていこう
その時はじめて私の虚像と実像は
見分けのつかない鏡映になるから

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パンドラの匣というのはギリシア神話のお話で、世界中の不幸や恐怖が封印されていた箱をパンドラという少女が開けてしまって、世界に不幸と恐怖が解放されてしまった。そこでパンドラが慌てて箱を閉じようとすると、最後に「希望」だけが残ってしまったと。

・・・まてよ。何で不幸と恐怖が詰まった箱に「希望」が入っているんだろう。とある本がこの疑問に答えてくれた。

それは最後に箱の中に残ってしまったのは「未来を知ってしまう不幸」だったのだと。自分がいつどんな風に死んでいくか、最愛の人といつ別れねばな らないのか。そういう不幸だけが箱の中に残ったので、僕達人間は、未来がわからず、「これからこうなっていったら良いな」と希望を抱くことができるままに なった、と。そういう解釈。

この説明にはかなり納得してしまった。

と、今週の発達心理学の授業中にこの話を思い出していた。それはDNA研究について話していたくだり。いまDNAの研究は進んでいて、自分がどん な病気にかかるのか、しいてはどんな病気によって死ぬのかがわかるんだそうだ。自分の子どもが生まれる前に、その子がどんな病気になりやすいかも調べれる のだそうだ。

たとえば自分の子どもがダウン症にかかる可能性が高いです、と妊娠中に言われたら、自分は生むと言う選択をできるのだろうか。

夏休み中に読んだ本に出てくる体験談の婦人は、1人目の子どもがダウン症で子どものうちに亡くなってしまったが、その子を通じて、人生において大 切なことをたくさん学べたと語っていた。彼女が二人目の子どもを生む前に医者にDNA検査を勧められたらしいが、断ったらしい。それはもし次の子どもがダ ウン症だとわかってから中絶をしてしまったりすれば、1人目の子どもの存在自体を否定してしまうことになるからだと。

未来がわかることが決して幸福ではない。もしかしたら不幸になるかもしれない。自分がどんな病気になるのかと言う事実を突きつけられたときにどれぐらい多くの人がそれを真正面に受け止められるのだろうか。

DNA研究によって僕達人類は、一度閉じられたパンドラの匣をまたあけて、最後の「未来を知る不幸」までも世界に解放しようとしてしまっているのではないだろうか・・・・。

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勉強が結構しんどかったので、続きが書けていませんでしたが、早く続きを!という声があったのでがんばって書いてみたいと思います。長いです気をつけて。

<その1から>
こうしてさまざまな準備を整え、万全の体勢でオランダ・ドイツに向かう予定でした。ですが思わぬ事態が起こり、行くかどうか迷いはじめてしまう僕がいました。

<その2>
それは出発前日の夜のこと。この日に世界ウルルン滞在記・再会スペシャルの放送があり、東ちづるさんの4回目のドイツ平和村の訪問となることは知っていた。平和村の日本人スタッフの方が事前に連絡をくれていたからでした。

この放送を見て僕の心は大きく揺らぐことになる。
東さんがスタッフを熱い抱擁を交わし、またドイツの街中のいろんなところで募金活動が続いているかを見て周り、そして平和村でリハビリを受ける子ども達と交流する。今までの3回と変わらない様子。変わらない風景。それなのに僕の心は動揺していた。

スタッフの方の話によると子ども達が平和村に滞在する期間はおよそ半年。入る時期は違っていてもだいたいそれぐらいの期間でもともと住んでいたと ころに帰ることとなる。このときの放送でも、平和村で仲良くなった二人が離れ離れになってしまうのを嫌がって泣いている様子が映し出されていました。施設 の許容量と需要の多さから考えればそれは仕方のないこと。だからいままでの3回の放送で紹介された子ども達はもうすでに平和村にはいない。そしてこの4回 目の撮影は12月の初旬に行われていたので、いまテレビに映っている子ども達は、僕が訪問するときにいるんだ、と言う事実を改めて突きつけられる思いでし た。

顔の半分が焼けただれた少年。ひざから先がない子。目が見えない子。ひじから先がない子。次々と映し出される子ども達を食い入るようにみつめなが ら、僕の頭の中には不安が募っていった。「彼らにあって僕はどんな顔ができるのだろうか。彼らは僕を見てどんな顔をするのだろうか」。彼らから見れば、僕 は観光中の日本人。裕福で、戦争の恐怖もない国から、興味本位でやってきた子ども。彼らは見世物じゃない。

彼らのために何かができないかとあんなにもいろいろ準備をしてきたのに、そんな思いはすべてふっとんで、不安に変わってしまった。「どんな顔して 彼らに会えるのだろうか」と。もちろんそんな不安はだれにも打ち明けることもなく抱えたまま、翌日、僕は飛行機に乗って日本を発ったのでした。

オランダについてからは、正直楽しみました。アムステルダムの町並みはきれいだし、風車を見に行ったり、木彫りの靴をお土産に買ったりと。ま、そういう話は割愛します。

そして平和村に行く当日。友達のお父さんの車に乗って移動すること5時間ほど。友達の家は比較的国境に近かったので思っていたほどはかからなかっ た。国境でお金をマルクに少しだけ変えて(3日後の1月1日からユーロが使用され始める予定でした)、一路、平和村のある地域へと向かった。その車中、僕 の不安はどんどんと高まっていくのをひしひしと感じていました。

「どんな顔をしよう。なんて声をかけよう。どう思われるだろう」。今にも引き返しましょうと言い出しそうになりながら、まさか言えるわけもなく、どんどんと平和村に近づいていったのです。そして僕達はついに看板を見つけ、敷地内に入って行きました。
一歩一歩踏み出すたびに、胸の鼓動は高まり、緊張で手が震えていった。寒いせいもあったのだろう。雪もちらほら降ってきていた。駐車場から施設らしき建物を見つけ、入り口が目に入った。

その時、、、、












ワーッと言う歓声とともに、何人もの、いや何十人もの子ども達が建物から出てきたのでした。僕は何が起こっているのかもわからないまま、ただあ然 としてその様子を見つめていました。お昼すぎに着くと伝えただけなので、出迎えなんかあるわけないし、もし伝えたとしてもそんなものを予想すらしてなかっ た。

真相は空から降ってきた雪。なんとそのとき降り出した雪は、ドイツでその年の初雪だったのです。お昼ごはんを食べ終わって、雪を見た子ども達がい てもたってもいられなくなって外に飛び出してきたのです。彼らのほとんどは乾燥した中東地域から来ている。半年ほどしかドイツに滞在していない彼らにとっ て、今日その日の雪が、人生にとって初めての“雪”との対面だったのです。

そんな彼らが、楽しそうに、笑顔いっぱいで、雪とじゃれあい、雪合戦をしたり、山を作ったり、見ず知らずの僕に雪だまをうれしそうに投げてくる子 どももいました。そんな様子を見て、僕が出発前から抱いていた不安がどれほどちっぽけなものなのか実感した。雪で遊ぶ子ども達の中には出発前にテレビで見 た、腕のない子も、頭が半分焼けた子も、足に怪我をした子もいました。それもすごいあふれんばかりの笑顔で。

その時、僕はおもったんです。僕が持っていた不安は、僕が彼らのことを「かわいそうな子ども」だと見下していたからなんだと。もちろん怪我をし て、治療を受けなくてはならない境遇は辛いかもしれない。でもそれはイコール不幸ではない。彼らはこの平和村によって、戦争や地雷の恐怖から少しずつ解放 され、こうして無邪気に笑顔を作れるくらいにまでなっている。

初雪が生んだ偶然は、僕の中の不安をすべてかきけして、決意へと変えてくれました。僕は子ども達の“この笑顔”を守りたい、と。
戦争や貧困のせいで、笑うことすら忘れてしまった子ども達がいる。
そんな子どもたちに笑顔を取り戻させようとする平和村のようなさまざまな機関がある。
でも、こんなケアを受けることができていない子どもが世界にはもっとたくさんいる。

僕がしたいこと。それは彼らの笑顔を取り戻すこと。彼らを見下すことなく、同じ人として尊敬しながら、彼らの笑顔を守ること。そのあと平和村の施 設見学とかスタッフとお話しよりも、この出会いが強烈すぎました。もちろん細かな問題や事情を聞くなかで、具体的に考えるきっかけとなりました。

平和村はちいさなNGOです。費用は日本などからの支援でまかなっていて、スタッフも数えるほど。そんなちいさなNGOが最前線に立って子ども達 を守っている。そんなNGOがいっぱいある。そのほとんどがお金に困っている。物がなくて困っている。もっと多くの子どもを守る方法を知っているのに、そ れができずに歯がゆい思いをしている。

日本にいて、NGOなどの活動をしていると、なかなか見えてこないこうした実情。知ることができて、物事を見極めるための視点が増えた気がする。 何よりもNGOの活動によって、実際に守られた笑顔を見ることができたことが何よりだった。日本にいると情報だけでなかなか見えてこない。リアルなお金の 問題と美談ばかりが飛び交っているから。

さぁ、問題はこれから僕がどうするか。今は勉強。立派になって、多くの子どもの笑顔を守れる人になりたい。それとともに、こうした思いをもっともっと多くの人に広げていきたい。


~ドイツ国際平和村編~終

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カウンター
プロフィール
HN:
Junya Tanaka
性別:
男性
職業:
NGOスタッフ/参加型の場づくり研究・実践家
自己紹介:
青山学院大学の社会人大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコースで参加型の場づくり、ワークショップデザイン、ファシリテーションなどについて研究をしながら、震災関連の仕事をしています。

2007年5月南カルフォルニア・オレンジ郡にある4年制教養大学を卒業しました。その後にすぐにイギリスの大学院に行くつもりが、もろもろの事情でいかないことにし、日本に帰国しました。なぜかいまだに日本にいます。人生思ったようにはならないです(笑)
後悔はしていませんが、試行錯誤です。

2011年5月にまたまた転職しました。震災関連の仕事をするためにアメリカ系のNGOで働き始めました。

また休日や平日の夜にはイベントや会議や参加型のプロセスのデザインやコーディネートをやったり、さまざまな研修や会議のお手伝いをしてます。ご関心があればお声掛けください。こういう研修ってふつう結構高いので、学生が参加できる金額でやれたらなと思っています(参加費応相談)
◇参加型ファシリテーション入門編ワークショップ
◇傾聴力ワークショップ
◇アイスブレーキング体験学習ワークショップ
◇開発と気候変動を考える参加型ワークショップ
<現在企画中>
▽発問力ワークショップ
▽ワークショップデザインコース
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