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コミュニケーション・ラボラトリーの公式ブログです。イベントの告知のほか、いままで書き溜め、Mixiなどで公開していた文章なども公開していきます。
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この間の日記でアイデンティティについて書いて以来、というかこっちにきて以来。結構そのことについて考える時間が増えた。スペインにおけるカタランにつ いてそうだし、ムハンマドの風刺画から始まるイスラムでのデモもそうだし、人もつのアイデンティティの強さをいい意味でも悪い意味でも見ている気がする。 そんな環境にあって、自分の中で「自分の国や民族を誇りに思ってアイデンティティにするのはいいことだけど、それがほかの国や民族を蔑んでまでするよう じゃいけない」と強く感じるようになった。でもいろいろな世の中の事件を見ているとそういう風にしか自分のアイデンティティを誇示できていない人が多いと 思う。

と、いうようなことを考えていたのだけど、昨日、自分も結局同じようなことをしていることに気がついた。なんかすっげー情けなかったけど。。。

こっちにきてからアイデンティティについて考えるようになったひとつの理由は自分自身が日本人としてのアイデンティティについて考える機会が増え たからでもある。今まで以上に回りに日本人はいないし、日本の文化に触れることなんてめったに無い。地下鉄に乗れば黄色い肌をしているのはほとんどいない し、周りから不思議そうな目で見られる事だってしばしばある。自分が日本人であることを強く意識するようになった。そしていつしか街中で韓国人とか中国人 とかほかのアジア人を見たときに「彼らと間違われたくない」とか「同じように思われたくない」とか「あいつらとは違う」とか思っている自分がいることに気 がついた。先週日記を書いて、しばらく冷静になってみて初めて自分がしていることがおかしいってわかった。心のどこかで優越感があったんだろう。今まで SUAで何学んできたんだろう。僕の中には日本人としてのアイデンティティはあってもアジア人としてのアイデンティティが全然確立されていない。こんなん じゃあかん。こんなんじゃ世界市民なんてまだまだ遠い。

めちゃめちゃ情けなかったけど、気づけてよかった。いまならまだ変えられる。だから変わる。

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火曜日に文化心理学(Cultural psychology)の最初の授業があり、教授のPepがカタルーニャについて語ってくれた。生粋のカタルーニャ人である彼は「スペインを知りたいのな らマドリッドに行けばいいし、君たちもカタルーニャに来たからにはここの文化もちゃんと知ったほうがいい」と語りだした。たとえばカタルーニャ語 (Catalan)がしゃべれないとしても、店に入って「Buenos diás」というのではなく、「Bon dia」というだけでカタルーニャの文化に対して敬意を表すことになるというのだ。

またスペインの政治状況も教えてくれ、彼いわくスペインではマドリッドを中心とした地域とカタルーニャとバスクの両自治州の間でここ近年無い緊迫 状態にあるらしいのです。バルセロナでは意見に多少の違いはあるものの、人口の9割がCatalanistaであり、それに対しマドリッドではほぼ全員が Españolistaであるそうだ。Españolistaというのはカタルーニャもバスクも全部スペインとしてひとつの国であるという意見の持ち主 で、Catalanistaはスペインは合衆国であり、カタルーニャもひとつの国であるという。まぁCatalanistaの中でも完璧に国としての独立 を目指すグループと今以上に強い自治権を得ようとしているグループとに更に分かれるらしい。カタルーニャ人の誇りはすごい強く、それは言語への誇りでもあ る。スペインでは従来のスペイン語をEspañolと呼ばず、Castellanoという。それはスペインにはCalatanとバスク語を入れて3つの言 語があり、そのうちひとつだけが「スペイン語」では無いという思いから。Pepはまたイタリア語など少数しか離せない言語がEU公用語なのに南フランスと バレンシア地方も入れて約1億人が話せるCatalanが公用語にならないのはマドリッドの圧力があるからだともいっていた。

こういうことをホストファミリーと話し出すと30分以上にわたって対話が始まってしまった。もちろん8割以上彼女らが話して、ぼくはちょっとしか しゃべって無いけど。ホストマムがニュースで見たことにはEUという抑えが無ければ今いつまた内戦が起こってもおかしくないとコメンテーターが言っていた らしい。また1939年から75年までのフランコ軍事政権の際にはCatalanが使用禁止されていたことなども教えてくれた。またいろいろ話は脱線して スペイン国王と存在と日本の天皇が似たような立場だとかいろんな話をした。

まぁ、長々と語ったけど何を思ったかというとこんなに強い地方意識があって、ひとつの国としてもまとまりきれていないのに、どうしたら世界市民と しての意識を持てるのだろうかということ。日本は単一民族国家だし、アメリカはいろんな民族がいてもどこかアメリカとして結束している感があり、ここまで 強い民族意識の差を生で感じることができたのはバルセロナに来たからだと思う。ヨーロッパのほかの国を見渡してもひとつの国の中で民族が分かれて、政治的 に対立している場合が多い。こうした民族意識の壁を打ち破るにはどうすればいいのだろうか。先学期社会教育学の授業で学んだことでは世界市民としての意識 は「地域民(および民族)」そして「国民」としてのアイデンティティがバランスよくある上にしか出来上がらないということ。そしてそれぞれのアイデンティ ティがかけることも無く、互いに反発しあうことも無く共存していかねばならない。カタルーニャ人の強すぎるほどのアイデンティティも、無理やりスペインと いうアイデンティティを押し付けられそうになったことに反発してできた結果なのでは無いだろうか。やはりアイデンティティは自発的にしか生み出せず、その ために偏見も偽りも無く、真実に対して誠実な環境をすべての人に与えていく責任が国家にはあるんじゃないかと思う。

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インターネットでニュースを読んでいたら次のような題名の記事を発見した。

「韓国研究チームによるAIDSワクチン、米国で特許承認」

ユニセフや模擬国連でAIDSの問題には関わってきていたのでこのニュースを読み進めてみた。

なんでも「既存のエイズワクチンの場合、エイズウイルスの特定抗原だけを利用した」ものらしいが、今回のワクチンは「病原性が悪化したエイズウイルス全体を使用したもの」らしい。

ほうほう、興味深いな、と読んでいると最後の下りに僕は腹を立てた。

「来年はじめに基礎毒性検査を経て、来年半ば頃、人間を対象にした臨床テストを行う予定」とし、「臨床テストで治療の効果が立証されれば、早期商業化も可能」と伝えた。

「早期商業化」

はぁ、やっぱりそこなのかよ。世界には4000万人以上エイズに苦しむ患者がいて、その多くが値段の高い抗エイズ薬を買うことが出来ない。マジッ クジョンソンのような金持ちは普通の人と同じように生活が出来ているのに、貧乏人は薬も買えずに、徐々に弱って死んでいく。それなのに薬を作る側、提供す る側は金、金、金。彼らの頭には薬の「実用化」ではなく、「商業化」しか目がないんだな。

先進国が作った薬を安い値段で提供するために途上国が似た薬を作ると、特許権を盾に糾弾する。買えもしない薬を作ってどうなるっていうんだい。はぁ、なんか悲しい世界だ。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/12/28/20051228000032.html

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僕の好きな言葉の一つは
孔子の論語の言葉で「従心所欲 不矩踰」です。
読みやすくすると「心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」と読むのですが、これでもまださっぱり意味がわかりませんよね。

論語では「三十にして而立、四十にして不惑、五十にして天命を知る」などは有名ですが、七十の「従心」は知らない人が多いみたい。僕も言葉だけは 知っていたけど意味がわかんなかったか調べてみると、「自分の思い通りに生きても、人の道を外すことがない」と言う意味らしいのです。

それってほんとにすごいな~って思う。自分がしたいことだけをしていても、誰も苦しめることもなく、社会のルールに背くこともなく、でも自分が幸せになれる。そして自分のためにした行動を通じて周りの人すらも幸せに出来ているんだろうなっておもう。

人の中で生きることは難しいから、周りに合わせるために自分を殺したり、自分を通そうと思えば誰かを傷つけたり、誰かの評価を気にして生きたりし ないといけないときもある。でもそんなわずらわしさを超えて、本当の知性を手に入れたとき、自然と自分の幸福と周りの幸福が一致する。自分の幸福のための した行動が誰かを幸福にし、誰かの幸せのためにした行動が自然と自分も幸福にする。
そういう境地に至ることが出来れば、どれだけ幸せなのだろうかっておもう。

おいらまだ21歳。孔子が70歳でそうなれるようになったのだと言うのだからまだまだ出来てなくて当然なのだろうけど、いつかはその境地に至りたい。

そのためには勉強、そしていろんな経験をしないとね。人生の幸も不幸もしっかりと見つめて、成長しないとね。そのための今。まけたらあかん。がんばれ、おれ。がんばろう、みんな。

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強くなりたい
本当の実力をつけたい
どんなクラスをとっているとか
宿題が多いとか
教授の成績のつけ方が厳しいとか
テストが難しいとか
忙しいとか
そんな言い訳をする必要がないくらいの
本物の実力をつけたい

卒業して世界に出れば
実力主義・結果主義
どんなに崇高な思想を持っていても
力がなければ誰も認めてくれない
誰も救えない
正しい思想を広められるだけの
実力を持たなくてはいけない
世界中の違う場所で学んだ
実力者たちと
互角以上の戦いをするために
言い訳をする必要がないくらいの
どんな状況でも最高の結果が残せるような
そんな実力をつけたい

怠けたい気持ちとか
現実から逃避する時間とか
散漫する集中力とか
そんなものを全部かき消して
やるべきことをやるべきときにやる
瞬間瞬間に生きることで
一日の中に何日分もの価値を創造すること
言うのは簡単なこのことを
着実に毎日実践できるのが
本当の実力者

一生懸命働いて送り出してくれる両親
倒れそうになるたびに励ましてくれる恩師・先輩
ともにがんばり、励ましあってきた仲間
自分を頼りにしてくれる後輩
そして世界で僕らの活躍を待ちわびている人々
苦しみの中で救いを待っている子どもたち

そんな彼らのことを思って
今日も弱い自分を切り捨てて
前に 前に 進んでいこう

言い訳なんていらない
後悔なんてする必要がない
そして自分の気持ちに妥協しない

強さとは心の強さ
弱い自分に勝てる強さ
左耳の後ろで誘惑するもう一人の自分を
断ち切る力
それは誰もが持てる力
誰もが持てる実力

その力は
朝の大いなる決意が生み出し
夜の反省へとつながるそのリズムの中で
その力はさらに高まっていく
朝の勝利が一日の勝利へ
一日の勝利から人生の勝利へ
そうした力をつけたい
そしてつけた力で誰かを救いたい
その思いを胸に刻んで
今日からまたがんばっていこう

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今日は社会学のクラスで教育における性差について話しあい、教育にかかわる人々、特に教師の態度がどのように生徒の学業成績に影響を及ぼすのかについて議論をした。その議論をしながら、久しぶりに自分のジェンダーに対する視点を思い返してみた。

大学に入ってから、いろいろな授業でジェンダーの問題について語り合う機会があったが、僕はそのたびに疑問に思うことがあったのです。

うちの大学の創立者は「21世紀は女性の世紀である。」と宣言しています。今まで女性の社会的地位は低く、さまざまな場所において差別されてきた ので、そうした女性が男性と同じように尊敬を持って接せられ、尊厳を持って生きることが出来る社会を目指すこと。また、歴史において戦争をしてきたのがい つも男性であるという認識から、世界平和を実現するために、政治やビジネスなどさまざまな分野において、女性の進出が必要であるということ。これは本当に すばらしい考えであると思う。

しかし世の中のいわゆるフェミニスト運動を見ていると、男女の雇用機会などを平等にする流れなど、男性と女性の人数を等しくすることがまるで平等 だといわんばかりの雰囲気を感じるし、実際に数を等しくすることを目標としている団体・企業もたくさん存在する。しかし果たしてそれで本当に「女性の世 紀」を実現できるのだろうか?

政治の世界やビジネスの世界を見てみると、成功している女性は、高圧的で、言いたいことをはっきりいい、独善的ともいえ、そこらの男性よりも「男 性的」である印象を受けないだろうか。政治の世界で言えば「鉄の女」といわれたイギリスのサッチャー元首相、日本の田中真紀子元外相などがそれに当たる。 女性が成功するために、男性よりも男性的にならねばならないのが、今の世の中の現状なのかもしれない。しかしその先に男性と女性が多くの分野において人数 が等しい世の中が実現できたとしても、そうした女性の多くが男性的であるならば、決してそれは「女性の世紀の到来」とはいえないのではないでしょうか。ま た近年の日本でも、男性的な女性が人気を博したりするが、そうした「女性の男性化」が男女平等への道だと勘違いしてしまえば、本当の意味での男女平等は決 して訪れないとおもう。

僕は女性の世紀を実現するためには「女『性』」(アクセントを前に置く)つまり、女性の女性としての性質にもっと焦点を当てなければならないと思 う。英語で言うならWomenではなくFemininity(女性らしさ)。女性の優しさ、エンパシーといわれる思いやりの心、命を生みはぐくむの力。そ うした女性らしさが男性らしさと同じように、いやそれ以上に市民が持つべき資質として認められていく必要があると思う。男らしい女性が社会で成功している のは、彼女らの中の「男性的な部分」が評価されているのであって、「女性」が評価されているわけではないということを深く認識する必要があると思う。

ここで大事な点は、男性も、女性が持つ女性的な性質を持つべきであるということであり、女性的な男性も認められ評価されるべきであるということで す。男性的な部分のみを評価する社会であれば、「男性的な男性」と「男性的な女性」しか成功しないことになる。そうではなく、等しく男らしさと女らしさが 認められることによって、「女性的な男性」も「女性的な女性」も同じように認められるべきであるからです。むしろすべての人々、自分たちの中に男性らしさ と女性らしさの両方があることを認識し、そのよい部分だけを出していくべきなのでしょう。

僕の大学の創立者が「21世紀は女性の世紀」というのは、女性の社会進出を推奨するためだけではなく、同時に男性も女性的資質を得ることで、平和 を推進していくためでもあり、なかんずく、男も女も、双方のいい資質を兼ね備える総合的人間を教育するためだとおもっています。もちろん、その段階的な実 現の中で、男女間の人数的な差を解消することは大事なステップであると思っています。ただ果たすべき目標がそこではないことを認識せずに進んでしまえば、 たどり着いた先がまったく違うこともありえる。だから斬新的にでも「女性らしさ」が認めらていく社会を構築していくことが必要だと思う。

ここまで長く読んでくださってありがとう。男性からも女性からも意見がほしいです。よろしく。

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カウンター
プロフィール
HN:
Junya Tanaka
性別:
男性
職業:
NGOスタッフ/参加型の場づくり研究・実践家
自己紹介:
青山学院大学の社会人大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコースで参加型の場づくり、ワークショップデザイン、ファシリテーションなどについて研究をしながら、震災関連の仕事をしています。

2007年5月南カルフォルニア・オレンジ郡にある4年制教養大学を卒業しました。その後にすぐにイギリスの大学院に行くつもりが、もろもろの事情でいかないことにし、日本に帰国しました。なぜかいまだに日本にいます。人生思ったようにはならないです(笑)
後悔はしていませんが、試行錯誤です。

2011年5月にまたまた転職しました。震災関連の仕事をするためにアメリカ系のNGOで働き始めました。

また休日や平日の夜にはイベントや会議や参加型のプロセスのデザインやコーディネートをやったり、さまざまな研修や会議のお手伝いをしてます。ご関心があればお声掛けください。こういう研修ってふつう結構高いので、学生が参加できる金額でやれたらなと思っています(参加費応相談)
◇参加型ファシリテーション入門編ワークショップ
◇傾聴力ワークショップ
◇アイスブレーキング体験学習ワークショップ
◇開発と気候変動を考える参加型ワークショップ
<現在企画中>
▽発問力ワークショップ
▽ワークショップデザインコース
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