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コミュニケーション・ラボラトリーの公式ブログです。イベントの告知のほか、いままで書き溜め、Mixiなどで公開していた文章なども公開していきます。
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   昨日、コロンビア大学ティーチャーズカレッジで教育哲学を教えていらっしゃるディビット・ハンセン教授が来校され、特別講義を行ってくださいました。
講義のテーマは「世界市民教育」について。これは最近の僕が研究したいと思っているテーマで、卒論にしようかとここ数日考えていたものだったの で、タイミングのよさにびっくりした。教育哲学の方向から世界市民教育に必要な要件を模索するハンセン教授とその応用と実現性について考えている僕とはす こしアプローチが違いはしたけど、教授の哲学的アプローチは自分のアイディアにかけていたものだったので、すごい参考になった。もうひとつの大きな違いは 教授が「Cosmopolitan Education」と言うのに対して、僕は「Global Citizenship Education」と言っていた。この二つは多少の違いはあっても考えていたものが似通っていたのでよかった。
世界市民教育とは僕の中では人々が世界についての認識を深め、グローバル化した世界の相関性と相互影響を理解し、その認識と理解の上で一 人一人が行動を取れるように教育とエンパワーメントをしていくことにある。経済も環境問題も政治の問題も、このグローバル化した社会の中では、「それぞれ の国の問題」だと言い切れない。日本が汚した海はほかの国の海とつながっているし、他国からやすく輸入した製品が国内を氾濫し、また輸出した高額な国内製 品が他国の企業力を下げ、同時に他国経済を圧迫する。石油の問題は世界に影響を与える。
こうした世界において、教育は新たな局面を迎えなければならないのは当然。でも多くの国の教育が「自国の社会において効率よく、また適切 に行動できる市民」をはぐくむにとどまっていてはいないだろうか。どうすれば世界的視野を持った市民を育てられるのか。これが21世紀の課題だと思う。
ハンセン教授は世界市民を育てるための要件として4つのことをあげた。それは、機械的ではない真のコミュニケーション、さまざまな考え方 を受け入れ異なる考えを容認する広い思想、知識を行動へと変え行く知的責任、そして想像的創造力への約束。これらの要素をどうやって教育現場に応用するか が課題であると。
世界市民教育の中でハンセン教授が大事だと感じていることは、地域性を無視してはいけないということでした。ここについては大いに賛成で す。世界のことを知る以前に、僕たちは自分たちの個性を作り出している、地域性、人種性、国民性、そして文化を理解しなくてはならない。この前、社会教育 学の授業で読んだ論文でも、教育において、三段階のアイデンティティを作り出す必要があると。それは人種および地域に住む自分のアイデンティティ、国民と してのアイデンティティ、そして世界市民としてのアイデンティティである。これらすべてをバランスよく保持することが世界市民であって、世界のことだけを 知った世界かぶれが決して世界市民ではない。Think Globally, Act Locallyといえば簡単だけど、その更に深い知って、世界市民教育の可能性を模索していきたいと思う。

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どんなに辛いときでも、どんなに忙しいときでも、今、自分がしていることが何のためなのかを忘れてはいけないと思う。
僕が今こうして大学で苦しみながらも勉学に取り組んでいるわけ、それはやっぱり世界のすべての子どもたちへ教育を届けたいという思いなんだと思う。
教育なしで今の僕はいない。教育があったから自分の夢を見つけることができた。そしてその夢をかなえるためのプロセスも教育でしかない。
教育がなければ自分はどうなっていたのかとおもうと考えるだけで恐ろしい。でも世界にはそんな大事な教育を受けることができずにいる子どもがたく さんいる。字を読むこともできず、計算もできずに一生を終えていく子どもがいる。夢を抱くことができない子どもがいる。夢を抱いてもそれをかなえる手段す らしらずにいる子どもがいる。知っていても機会すら与えられない子どもがいる。
子どもの労働。子どもの買春。子どもの人身売買。子どもの性的搾取。子ども兵士。学びの場から引き離されて、だまされ、働かされ、選択肢もなく、搾取され、命を削らされる子どもたち。
根源的な原因は貧困、紛争、そして根強い偏見。そうしたものから彼らを解放して教育による力を与えてほしい。いや、彼らの中に潜在する力を引き出させてあげてほしい。夢を抱く力。夢をかなえる力。
彼らは決して無力ではなく、羽をむしとられた鳥のようで、当たり前に与えられるべき教育さえあれば自由に空を飛んでいるだろう。
今の僕を奮い立たせてくれるもの、それは自分に与えられた教育への感謝とそれをより多くの人に届けることで報恩すること。
世界中のすべての人を同じスタートラインに立たたせよう。何百メートルも後ろからスタートするような人がいるこんな出来レースはもうごめんだから。
大人の事情で命の危険にさらされる子どもがいてはいけない。銃弾の雨におびえながら眠る日々にピリオドを打とう。子どもの意思に反して働かされたり、体を売られたりすることがあってもいけない。
僕たちがそんなことにおびえたことがあっただろうか。自分さえよければいいのだろうか。
誰かの犠牲の上に一部の人が裕福になるような資本主義はもうごめんだ。
どんなに努力しても評価されないような社会主義ももうごめんだ。
権力におびえて、命令に従わなければ生きていけない軍国主義もごめんだ。
僕らが求めているのは誰もにおなじ条件が与えられる世界。それは差別の上での自由競争を支える資本主義とは違う。それは社会主義の理想とも違う。新しい世界。

すべての人に等しく教育を。
すべての人に等しく夢を見る力を。
すべての人に等しく夢をかなえる力を。
すべての人に等しく権利を。
すべての人に等しい命の安全を。
すべての人に等しいスタートラインを。

みんながいっせいにスタートしたら、ほんとに速いのはだれなのかな?社会を席巻して我が物顔の男たちも、白人も、多数派の人も、八百長なしで勝ち 続けることが出来るのかな。この21世紀のうちに、そんな平等の世界が実現できるように、そしてその実現に少しでも自分が貢献できるように、今は勉学に励 もう。こうしている間にも多くの人が苦しんでいるから。

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パンドラの匣というのはギリシア神話のお話で、世界中の不幸や恐怖が封印されていた箱をパンドラという少女が開けてしまって、世界に不幸と恐怖が解放されてしまった。そこでパンドラが慌てて箱を閉じようとすると、最後に「希望」だけが残ってしまったと。

・・・まてよ。何で不幸と恐怖が詰まった箱に「希望」が入っているんだろう。とある本がこの疑問に答えてくれた。

それは最後に箱の中に残ってしまったのは「未来を知ってしまう不幸」だったのだと。自分がいつどんな風に死んでいくか、最愛の人といつ別れねばな らないのか。そういう不幸だけが箱の中に残ったので、僕達人間は、未来がわからず、「これからこうなっていったら良いな」と希望を抱くことができるままに なった、と。そういう解釈。

この説明にはかなり納得してしまった。

と、今週の発達心理学の授業中にこの話を思い出していた。それはDNA研究について話していたくだり。いまDNAの研究は進んでいて、自分がどん な病気にかかるのか、しいてはどんな病気によって死ぬのかがわかるんだそうだ。自分の子どもが生まれる前に、その子がどんな病気になりやすいかも調べれる のだそうだ。

たとえば自分の子どもがダウン症にかかる可能性が高いです、と妊娠中に言われたら、自分は生むと言う選択をできるのだろうか。

夏休み中に読んだ本に出てくる体験談の婦人は、1人目の子どもがダウン症で子どものうちに亡くなってしまったが、その子を通じて、人生において大 切なことをたくさん学べたと語っていた。彼女が二人目の子どもを生む前に医者にDNA検査を勧められたらしいが、断ったらしい。それはもし次の子どもがダ ウン症だとわかってから中絶をしてしまったりすれば、1人目の子どもの存在自体を否定してしまうことになるからだと。

未来がわかることが決して幸福ではない。もしかしたら不幸になるかもしれない。自分がどんな病気になるのかと言う事実を突きつけられたときにどれぐらい多くの人がそれを真正面に受け止められるのだろうか。

DNA研究によって僕達人類は、一度閉じられたパンドラの匣をまたあけて、最後の「未来を知る不幸」までも世界に解放しようとしてしまっているのではないだろうか・・・・。

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皆さんは子どもの商業的性的搾取という言葉をご存知でしょうか?
僕は今から4年前高校2年生だったときに朝日新聞社記者の大久保真紀さんの公演で、日本と子どもの性的搾取の話を聞きました。日本は世界1のポル ノ排出国で、世界会議で「世界のポルノセンター」と非難されていたり、日本人の多くがアジアの国で「研修」と偽って子どもの買春を行っていたり、旅行会社 が斡旋していたりする事実があったからです。

当時僕はいち日本人としてそのことを聞いて自分の無知をすごく恥ずかしく感じました。学校に帰ってその話をしてもそんなことは誰も知らないし、誰も教えてくれない。日本がこんなにも関わっている問題なのにまともな報道も行われていません。

でも僕が自分の周りの知らない人たちに「なんで知らないの?」とせめても意味がない。「知らない」ということ自体には「罪」はないのだなと。でも「それを知った自分」が「伝えていくこと」は「責任」であり、それを怠り事態を助長するならそれは「罪」だなと感じたのです。

僕はできるだけ多くのことにこうした問題を伝えていき、自分と同じようにまた誰かに伝えてもらえるように、その人がもっと知ろうとしてもらえるように努力をしています。

皆さんの身近なことでそういうことありますか?そしてそれにたいしてどうアクションをとり、どう周りの人に対してどういうアプローチを取っていますでしょうか???

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世の中で起こっていることに関心が無いというのはすごく恐ろしいことだと思う。

たとえば、自分の住んでいる地域で何か大きな災害があったり事件があったりすれば誰もが関心を抱くだろう。それはもちろん自分に危険が及ばないよ うにするための「防衛本能」の一部なのかもしれない。そして事件や災害が起こった地域が自分の身近なところから離れたり、縁のある土地でなければ、どんな ことが起こったとしても「ふーん」で済ましてしまうのかもしれない。

もちろん、世界で起こっていることすべてに関心を持っていけるほど時間の余裕はないし、何でもかんでも知ろうとするなんてナンセンスだと思う。

関心があるということはある意味、「その事柄が自分の生活や思想に対して影響がある」ということだと思う。身近に起きている犯罪は危険という影響 であり、人は自然と関心と持つ。株をやっている人なら、株価の変動、車を持っている人ならガソリン代の変動は自分の経済に影響があるから関心を持つ。

そういう論理が成り立つと自分に影響が無いことに人は関心を示さなくなって、知ろうとすらしなくなってしまう。今、アメリカで話題になっているハリケーンも、スマトラで起きた津波も、世界のいろんな情勢も、自分に影響がない、といって関心を払わなくていいのだろうか。

僕は人が関心を持つためには、自分に与える影響以外にも「自分がその事柄に対して影響を及ぼすことができる」という認識と状態も必要だと思う。
それは起きたことに対して何かをできる自分がいる、ということ。

たとえば道に迷っている外国の人を見かけたとき、自分が英語が話せなければ、何もできないのだから関心を持てないだろうし、無視しかできない。で も英語がしゃべれるなら助けられるかも、って思って関心を持って、話しかけれるかもしれない。実際僕も英語が話せるようになってから道端の外国の人に今ま で以上に関心を持っている気がする。
それと同じように、災害や事件なので自分から離れているものでも、それに対して何かができるという自覚って大事なんだと思う。ハリケーンにして もいろんな援助・支援の方法があるし、スマトラのときもそうだった。小さなことかもしれないけど、その事柄に対して何かをできるかもしれない自分が確かに いるということ、そしてそれを自分が認識していること。

去年そういう思いもあって、大学でGlobal Awareness Networkという団体を作った。この団体は世界で起きていることにたいする学生の関心を高めるために自分たちで世界のニュースをまとめた新聞を作った り、プレゼンテーションを作って、ディスカッションを開いたりした。そしてただ知るだけで終わらずに必ず最後に「じゃあ自分たちが何をできるのか」リアル に探して提案できるようにしている。
今回のハリケーンでも大学では募金を行っているし、僕もそれに関わっている。多分来週ぐらいにGlobal Awareness Networkでもプレゼンをするかもしれない。

僕らは決して無力ではない。決して傍観者であってはいけない。そしてそうした関心の輪はどんどん広げていかないといけないと思う。

目の前に苦しむ100人のうちの1人がいるとき、自分は100人も救えないからって目の前にいる1人すら見捨ててしまってはいけないとおもう。僕は目の前の1人を救える100人の仲間を作りたい。その輪を少しずつ広げていきたい。

長文よんでくれてありがとう☆

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子どもの問題に関わって活動をするようになってからずっと気になっていることがある。それは子どもをどう表記するかということ。

新聞・TV・インターネットなどなど、さまざまな媒体でいろんな形の書かれ方がしていると思う。たとえば「児童労働」「少年兵士」「児童虐待」 「子どもの性的搾取」。英語に直してしまえば「child labor」「child soldier」「child abuse」「child sexual exploitation」と全部child だというのに、日本だといろいろな書かれ方をしてしまう。とりわけ「少年兵士」という表現は現実的に少女もいることを考えると、不適切な表現であると思 う。

あと子どもの権利を掲げる条約であるConvention on the Rights of the Child。日本政府訳では「児童に関する権利条約」に対し、日本ユニセフ協会抄訳では「子どもの権利条約」になっている。ここから政府が公式な child の訳として「児童」を使っているのに対し、一般的にはそれが使われてないことも伺える。

あと僕が気になっているのが「子ども」か「子供」かという問題。多くの新聞では大体「子供」と表記している。一文字を争う新聞業界では少ない文字 で現れるほうが優先されているのかもしれないけど・・・・。そもそも「子供」というのが不適切でないかといわれだしたのもここ近年のことだと思う。

ネットで少し調べてみたけど、日本語として「子供」と言う表記は正しいが、最近、教育現場などではそれを差別的表現として変えようとしているとい うものらしい。子供の「供」は「男共」といったのと同じで複数表現であって、それが「友達」と同じように単数としても使えるようになったものらしい。だけ ど「共」じゃなくて「供」になった理由はわからない。差別表現だという側としては子供が「親のお供」であったり、「お供え物」みたいに見られるということ らしい。

個人的に僕は「子ども」という表記が好きで使っている。作家や新聞記事等でも「子ども」と表記している人のほうが子どもの問題に対して理解があるという経験からでもある。かといって「子供」と書いている人がそれだけで「反子供の権利」的な人々だというつもりもない。

と、調べながら書いていて難しい問題であると思った。一概には言えないし、差別的表現だと主張することで差別的な雰囲気を作り上げているというの もあながち間違いとも言いがたいし・・・。でも僕の中で「子ども表記者」のなかに子ども問題を理解している人が多いというのは経験からくるもので、変えが たいものであると思う。

これに比べると「児童」と「子ども」の問題のほうが大きい気がします。「児童」というと学校に行っている子どもというニュアンスがあると思いま す。これも文学的に言うとそうではないのかもしれませんが、創思っている人が多いのじゃないでしょうかね?もちろんConvention on the Rights of the Childで欠かれている権利は学校に行っている行ってないは関係なくすべてのchildrenが与えられるべきものなので、どうかな・・・とも思いま す。まあ、文証があって児童が学童のみを指しているわけじゃないのでなんとも言いがたいですが。

こういうことについて皆さん考えたことありますか???

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プロフィール
HN:
Junya Tanaka
性別:
男性
職業:
NGOスタッフ/参加型の場づくり研究・実践家
自己紹介:
青山学院大学の社会人大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコースで参加型の場づくり、ワークショップデザイン、ファシリテーションなどについて研究をしながら、震災関連の仕事をしています。

2007年5月南カルフォルニア・オレンジ郡にある4年制教養大学を卒業しました。その後にすぐにイギリスの大学院に行くつもりが、もろもろの事情でいかないことにし、日本に帰国しました。なぜかいまだに日本にいます。人生思ったようにはならないです(笑)
後悔はしていませんが、試行錯誤です。

2011年5月にまたまた転職しました。震災関連の仕事をするためにアメリカ系のNGOで働き始めました。

また休日や平日の夜にはイベントや会議や参加型のプロセスのデザインやコーディネートをやったり、さまざまな研修や会議のお手伝いをしてます。ご関心があればお声掛けください。こういう研修ってふつう結構高いので、学生が参加できる金額でやれたらなと思っています(参加費応相談)
◇参加型ファシリテーション入門編ワークショップ
◇傾聴力ワークショップ
◇アイスブレーキング体験学習ワークショップ
◇開発と気候変動を考える参加型ワークショップ
<現在企画中>
▽発問力ワークショップ
▽ワークショップデザインコース
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